活動報告

<新会員卓話 2>藤原馨 会員

皆さん、こんにちは。今年の3月14日に入会させていただきました藤原馨です。
309102.jpg昭和32年12月生まれでございまして、さきほどは誕生月をお祝いくださいましてありがとうございました。出身地は岡山県の瀬戸内海沿岸、造船会社の企業城下町だった玉野市というところです。
新会員としてこんなに早く卓話の機会を頂戴しまして、感謝しております。
なぜ、こういう高い場所から皆さんにお話しさせていただいているかと申しますと、たまたま「地域のメディアで長く働いている」ということで入会を許可していただいたため、と言えると思います。では、もっとさかのぼると、横須賀ロータリークラブに入会させていただくことにつながる、もともとのきっかけはなんだったのか。今日はそういうお話をさせていただきたいと思います。
パキスタンという国がありますね。地理的に見ますと、インドの西隣りにありまして、さらに西にはイラン、北西にはアフガニスタンという位置関係の国です。最近では、最年少のノーベル平和賞受賞者であるマララ・ユスフザイさんとか、彼女を銃撃した"パキスタンのタリバーン運動"とか、そういった報道で取り上げられる国です。
じつは、若いときに2度、パキスタンに行ったことがあります。貧乏旅行者としてです。この「パキスタンに行った」ということが、巡りめぐって、今この状況につながっているわけです。「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがありますが、ぼくの場合は、「昔、パキスタンに行ったことがあるので、ロータリーに入会した」ということになります。
ではなぜ、パキスタンなんかに行ったのか、ということであります。
大学に入るときに、考古学をやりたいといういちおうの目標を、ぼくは持っていました。実際には、みんな大学に行くんだからオレも、という程度の意識しか持っていなかったのですが、なんとなく『考古学でも......』という漠然とした思いがあるにはあったのです。
そして、都内の大学に入りましてアパート暮らしを始め、それなりに楽しく学生生活を送っていたのですが、裏を返せば怠け放題の毎日でして、とくにクラブや同好会に精を出すわけでもなく、何しに大学に入ったのかわからないような日常でした。
さすがに、『これではいかん』と思い始めたのが大学2年の秋です。『まがりなりにも自分は考古学をやりたいと言って大学に入ったんじゃないか。初心に帰らなきゃダメだ』と思いました。そこで思いついたのが、古代遺跡の現場に実際に立って脳ミソに強烈な刺激を与えよう、というショック療法です。たとえば、エジプトのピラミッドを目の当たりにすれば、自分の中に何かが湧きおこるだろう、というようなまことに短絡的かつ単純な期待を抱いたわけです。
皆さん、歴史の教科書を憶えていらっしゃると思います。古代の世界四大文明を記憶していらっしゃいますか? 中国は《黄河文明》、イラクのティグリス・ユーフラテス河流域の《メソポタミア文明》、インドの《インダス文明》、そしてナイル川の《エジプト文明》ですね。これらの文明がその後の歴史の源である、という考え方は早くから否定されているのですが、四大文明というとこれらの名前を思いだします。
ぼくは、この四大文明のどれかに直接、触れたいと考えました。1977年の秋のことです。二十歳になる直前でした。で、いろいろとネタをそろえて検討した結果、貧乏学生がアルバイト代を貯めて行ける国というのは、当時、韓国かタイかインドくらいだということがわかりました。そこで、インドに行ってインダス文明の遺跡を見よう! 脳ミソとハートに刺激を与えよう! という計画を思いつきました。ところが、ちょっと調べてみると、インダス文明の有名な遺跡、《モヘンジョ・ダロ》はじつはインドではなく、パキスタンにあるということがわかったのです。インダス川というのはパキスタンを流れている川なんです。
航空機を乗り継いでパキスタンに入国するのは、貧乏学生には無理な話でした。でもインド往復の格安航空券なら、なんとか買えそうです。インドからパキスタンに入ろう、ということにしました。当時は、若い連中が多く住んでいるような町では、「インド・ネパール精神世界の旅」などという格安航空券のチラシが、電柱によく貼ってありました。ぼくは、そんな情報を頼りに格安航空券を扱っている怪しげな事務所で航空券を予約しました。
余談ですが、当時は、タダ同然のチケットをかき集めてきて安い価格で販売するブローカー的な事務所がたくさんあり、ぼくもそのひとつを訪ねました。新宿西口から15分も歩いた路地の奥にあるカビ臭いマンションの1Fに「いかにも」という感じの事務所がありました。日の当たらない、天井の低いガランとした部屋にデスクが2台並べてあって、チケットを集めてくる営業マンのオニーサンとその奥さんかもしれない女性の二人でやっている、そんな会社でした。この営業マンが"ヒデさん"という人で、その事務所は《秀(ヒデ)・インターナショナル・サービス》と名乗っていました。貧乏旅行者の間で「秀インター」と呼ばれていたその会社は、それから1年半ほどで新宿西口の駅前のビルに引っ越すほどに成長しまして、その後、株式会社になり、ヒデ・インターナショナル・サービスの頭文字を取って、HIS(エイチアイエス)という社名に変更して、今に至っています。現・会長の澤田秀雄さんが白ワイシャツにネクタイ姿でバタバタ
動き回っていたのを今でも憶えています。
余談が長くなってしまいました。
 まあ、そんな形で格安航空券を手に入れて、78年の2月にまずインドに入国し、それから陸路でパキスタンに入りました。
 インドとパキスタンという、この敵対する二つの国家はもともと、イギリス領インドという一つの国でした......、ということはご承知でしょうか。第二次世界大戦の終結によってイギリスが植民地としてのインドを放棄したあと、ヒンズー教徒が多数を占める土地とイスラム教徒が多数を占める土地がイギリスからの「分離独立」という形で、別々の国家として独立を果たしたわけです。しかも、......憶えていらっしゃると思いますが、パキスタンは当初、真ん中にインドを挟んで西パキスタンと東パキスタンという二つのエリアに分断された特殊な国家でした。のちに東パキスタンは、首都のある西パキスタン側による差別的な扱いに反発したベンガル人の独立運動が戦争に発展し、ベンガル人の国《バングラ・デシュ》として独立しました。このときに、インドとパキスタンは3回目の印パ戦争を戦い、今も基本的には「敵国」同士の関係です。
 そういう状況ですから、徒歩で往来できる開かれた国境地帯は、《ワガ》という村の1か所だけとなっています。78年にぼくが陸路でパキスタンに入ったときも、このワガの国境検問所を歩いて越えました。敵対する2国間の緩衝地帯を1キロほど歩く間に、インドの出国審査の事務所や税関、検疫所、特殊な物品の検査所、パキスタン側ももちろん入国管理事務所や税関などなど、合計8つほどの建屋を経由しながら時間をかけて国境を越えます。パスポートを出したりしまったり、パスポートがなるべく人目につかないように注意して手続きを繰り返しました。これがそのときのパスポートです。菊の御紋も『日本国旅券』という文字もまったく見えなくなっています。当時はこういう紺色のパスポートでしたね。それから間もなく赤色になり、今はこんなにコンパクトになっています。
 この昔のパスポートを広げると中にこんな黄色い紙が2枚、入っています。検疫の証明書です。こちらが、撲滅宣言が出された天然痘の予防接種証明、もう1枚がコレラの証明書です。こういう準備をいろいろ片づけて旅行に出たわけです。
 そして、これがそのときに履いていたワークブーツです。家賃16,000円のアパートに住んでいる時代に14,000円で買いました。5回ほど修理しましたが、今でも履いています。それから、これがその時期から使っている腕時計です。2か月ほど前にベルトを交換しましたが、今でも愛用しています。セイコーのクォーツです。それぞれ宝物です。
 パキスタンに入ってから、いろいろな人間とやりとりしながら旅をしました。騙されたり、侮辱されたり、釣銭をごまかされたり、ブラックマーケットで法外なレートで両替されたり、また反対に、助けられたり、感謝されたり、ほめられたり、感心されたり、さまざまな経験をしました。目指す古代都市遺跡《モヘンジョ・ダロ》にたどり着くまでに、ラホールという大都市を皮切りにいろいろな町をめぐり、いろいろな人間に会い、2週間後、いよいよ《モヘンジョ・ダロ》の前に立ちました。
 ところが、ぼくの中に何の変化も起こりませんでした。革命的な衝撃など、まったくありませんでした。5000年も6000年も前の煉瓦づくりの都市遺跡は、確かに驚きを呼び起こします。しかしながら、それは観光客としての感動となんら変わりません。結局、自分の中には、きっかけになるものが何もなかったわけです。古代都市遺跡よりもはるかに刺激的なのは、人間でした。煉瓦づくりの遺跡よりも、まったく違う文化を持って生きる人間のほうが、刺激に満ち満ちていました。人間のほうが遺跡よりもはるかに面白い! そのことに気がついたのです。
このときの思いがベースになって、『人間を扱う仕事に就こう』と決心し、メディアの業界に入りました。最初は新聞・出版という紙のメディアの世界にいて、それから今の地域メディアに落ち着きました。そして今、こうして皆さんの前でお話しさせていただいているわけです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」......。ぼくの場合は、「パキスタンに行ったら、ロータリーに入る」ということになりますが、このこじつけは、なんとかうまくまとまったでしょうか。
どうもありがとうございました。
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