活動報告

<卓話> 「 米山月間に因んで 」

<卓    話>     「 米山月間に因んで 」

                           米山奨学生 尹   榮 治 様

3082.jpgこんにちは。私はユンヨンホと申します。これから私の生い立ち、家族、日本に来たきっかけ、大学生活、卒業後の将来について話したいと思います。

 まず、私の家族は両親と姉が二人いる五人家族です。父親は歯科医師で母親は専業主婦です。一番上の姉は外務省の公務員でしたが、結婚後に子供に恵まれて今は専業主婦をしています。二番目の姉は、ファッション関係の仕事をしており韓国、日本、中国を行き来しています。

 私は1983年4月に韓国のソウルで生まれました。祖父にとっては念願の長男で、家族からたっぷりの愛情を受けながら育ちました。小学校から高校まで地域の公立学校に通いました。小学校の頃の私は、学校ではしらない人がいないくらい悪童でした。校長先生も私のことを知っていて、朝礼の時「ユン君今日は怪我しないように」と、皆の前で話したりしていました。中学校と高校の頃は勉強には興味を持たず友達と遊んだり運動をしたりしていました。主にサッカーとバスケットボールをやっていましたが、トップにはならなかったものの学校の代表として選抜されました。勉強とは少し離れていたので、当然私の点数ではどこの大学にも合格出来ず、自然に浪人生活を始めました。そうすると父親に突然「2週間どこかへ行くから荷物を用意しておいて」と言われて、向かった場所が山奥のスパルタ式の予備校でした。そこで初めての団体生活、そして初めて親から離れた生活を始めました。しかしながら、1か月程したらそこから逃げようとしている友達がいたので、夜一緒に逃げました。それが悲惨なもので、予備校から一番近いバス停までは25キロほど離れていまして、暗くて見えない山の道を永遠に歩いていた記憶があります。翌日の朝に実家に着いたら父親の顔が怖くて「歯が痛くて来ました」と嘘をついたら、すぐに診療所に連れていかれて大変でした。でも運よく小さな虫歯があって助かりました。もちろん、その日の夕方にはまたそのスパルタ式の予備校に戻されました。そこまで勉強して入学した大学は、家から一番近い専門大学でした。でも、私はその大学の生活に慣れませんでした。当時姉がアメリカのニューヨークにいたので、自分も留学という名目でアメリカに行きました。本当にニューヨークは天国でした。そこに住みたくて初めて勉強というものをしました。やっと受験勉強に乗って頑張っている時に親から電話があり「8月5日までに○○部隊に入隊が決まった」事を知らされて帰国し、その1週間後には入隊し2年間の軍隊生活をしました。軍に入って最初に感じたのは「このような灰色の世界があるのだ」ということでした。本当に白黒のテレビを見ているような世界でした。私は軍の訓練で射撃の点数が良かったので、射撃調教として働いていました。毎日のように射撃と銃の分解掃除をしていました。3月から10月まで大きい訓練を除いて、週1回700人から800人の予備軍が入隊して射撃などの訓練をしていました。その用意が大変なもので、一人当たり10発ずつ打ちますので、装填・ローリングを1日8000発ほど準備した覚えがあります。そのため、翌日私の両方の親指は二倍ほど腫れていました。夜は9時に寝て2時間ほどの夜間警備に立ちますが、その時私の未来についていちばん考えたと思います。週末は自分の装備の整備や宗教活動、洗濯などをしました。皆同じ服を着ていたので、下着まで名前を書いていました。又、訓練がない時はだいたい駐屯地の整備にかかりました。その時人間の力の素晴らしさを経験しました。たとえば洗濯物を干す場所が足りなかったので、小さい丘を削り洗濯物干し場を作りましたが、高さ5メートル程の丘を直角に削る作業を196人が2日間で仕上げました。その時「やればできる」という事を体得できたと思います。

 軍の休みは2年間のうち約45日程です。休暇を貰って部隊から出るときは世界が輝いたものの、部隊に復隊する時は「屠殺される牛」の気分でした。

 当時はとても大変でしたが、2年間は「自分はいったいどのような人になればいいのか」「やりたいことはないのか」本当に色々な事を考えたと思います。その時、父親の知り合いの息子さんが日本の歯科大学に入ったということを聞きました。「私もやってみたい」と思い軍が終わった後、父親の許可を得て日本に留学することになりました。当時はただの現実逃避であったかもしれません。最初は日本語を学んで、話すことが楽しかったです。そして日本に来て一年経った頃、大学で何か学びたくなりました。幼い頃から見て、聞いて、感じていたものを自分も学んでみたいと思い、色々な歯科大学を見学したり勉強もしたのですが、あまりにも今までの勉強が足りなくて挫折をしてしまいました。入試後結果発表を待つ日々は、一日一日が永遠のように長く感じました。発表前日、家に何もなかったので近くのスーパーで買い物をしてその帰り道に母親から電話がありました。母親の声が聞こえた瞬間、涙が止まりませんでした。近くのビルに入り号泣した覚えがあります。その翌日、嘘のように合格通知を貰いました。すぐに親に報告し、その時の親の嬉しそうな声は一生忘れません。自分にとっても初めてかもしれない嬉しい報告でした。

 2009年4月、同級生より少し遅れて25歳で神奈川歯科大学に入学しました。当時留学生は自分一人しかいなかったのですごく緊張していました。しかし、入学式の時隣の友達が私より一歳上の人だったのですぐ仲良くなり、この6年間一回も離れず一緒に勉強しています。当時は日本語力もいまひとつで、勉強に慣れるのに精一杯でした。特に人生初めて徹夜して勉強した科目があり、それが「哲学」という科目でした。日本の昔の詩を読み覚えるのが難しかったです。しかしこのような経験があったため5年生の臨床実習、並びに今、皆さんの前で話せることが出来るのではないかと思います。

 これまでに大学生活で記憶に残るのは、1年生の時は仲の良い友達が少なかったので2年生になってからテスト前を除き1か月1~2回、周りの友達を誘って飲み会を開きました。最初は2~3人だったのが、半年後には30人を超えた事もあり、安い居酒屋を手配する事が大変でした。しかしその飲み会のおかげで同級生のほとんどの友達と仲良くなり、一緒に勉強したり韓国にも呼んで旅行したりしました。又、楽しかったのは5年生から始まった病院実習でした。今まで視覚でしか学べなかった知識を、実際の臨床現場で学べる事はすごく良い経験でした。臨床実習があった為、歯科医師により一層近づいた気がして自分のモチベーションを高めることが出来たと思います。

 現在、私は国家試験に向けて友達と日々精進しています。来年3月には良い結果を皆様に報告することが出来るように頑張りますので、宜しくお願いします。

 さて、これからは卒業後の将来について話したいと思います。

卒業後は、まず韓国の歯科医師国家試験を受けて両国の歯科医師免許を取りたいと思います。その後には日本に戻り、研修及び大学院に進学し博士号を目指しながら日本と韓国を行き来し、日韓両国の歯科医療に関する交流をしたいと思います。私は2年前から様々な医科学会に出席し、韓国語の通訳をしています。最近は国を超えて学ぼうとしている者も増えていると思います。そこで私は、自分が学んだ知識を生かして日韓両国の歯科医療の架け橋になりたいと考えています。

 また、私は専門職の良いところは、歯科医療を自由に受ける事が出来ない人々のために、自分の力を生かしてボランティアができることだと思います。小学校の頃から歯科医師である父親と一緒に歯科ボランティア活動に参加していました。私は掃除などしか出来なかったのですが、自分の技術で人の役に立つことが出来ることにすごく感銘を受けました。私も卒業後には人を助けるボランティア活動を行いたいと思います。

ありがとうございました。

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