< 卓 話 > 「戦艦陸奥主砲(4番砲塔)80年ぶりの横須賀里帰りに皆様の力を 」
元統合幕僚長 齋藤 隆 様
齋藤です。大先輩からご紹介を頂き恐縮しております。実は私、大学まで横須賀から出たことがない人間です。三浦半島でずっと育ってきまして、具体的には池上です。爺さんは兵隊で海軍を志願し中尉で辞めており、父親はやはり海軍を経て海上自衛隊に入りました。私は3代目になるわけですが、いま自衛隊を 辞めて5年目になります。
私がミリタリー色豊かな人間だろうと思われているかどうかわかりませんが、横須賀総監の時にかなり皆様とお会いしていますので、酒しか飲んでいない人間と、性格は大体わかっておられると思います。
私は「陸奥」だとかに、すごく興味持った軍事オタクではございません。"昔の軍艦の話などどうでも いい、そんなことより今の方が大事だ"と言ってきた人間だったのですが、ここに来てやはり少し墓場に 近づいたというか、自分たちのルーツは何かという事をもう一度見つめ直していかないといけないし、 そういうことにボランティア活動をしていかなければと思うようになりました。若い人にこのようなことをお願いしても、現状では仕事と生活を守ることで一生懸命だと思うのです、その意味で退職して少し余裕がある人間がやらなければと思うようになりました。
安倍政権になって、集団的自衛権の問題がさわがれています。色々批判もありますが、現場を経験した者からは、集団的自衛権の問題はきちっと解決しておく必要があると思っています。
沢山あると思います。それから日露戦争終結から来年で110周年です。来年は色々エポックの年です。
さて私は帝国主義者ではありません。平和主義者です。したがいまして"定刻(帝国)"通りには 終わらないかもしれませんので、そこはお許し願うかもしれません(笑)。またまた、余談になり ますが、いま吉田、吉田と2人の吉田で、大騒ぎしています。菅さんは理系すぎたものだから、 マイクロマネジメントをやりすぎたのではないかとの批判があります。私も典型的な理系人間であり ます。その意味では、現役の時にかなりマイクロ マネジメントをやったなあと、エラそうに菅さんの事を批判はできないなと、反省することしきりです。
さて本題の戦艦「陸奥」の主砲の話に入ります。 この写真は1927年(昭和2年)頃の「陸奥」の写真です。来年はヴェルニー、小栗上野介による 横須賀製鉄所起工150周年になります。先程も 言いました様に私は理系人間です、少し数値的に調べてみました。但しこれは私のオリジナルで、もし 違っていたらご容赦お願いします。
1865年に鍬入がされ、1869年(明治2年)に横須賀製鉄所が完成しました。いま富岡製糸場が 世界遺産という事で騒がれていますが、実は製糸場の煉瓦は横須賀製鉄所で製造されたものです。それが 富岡製糸場で使われているらしいですね。ルーツは横須賀です。
この表は、横軸に「長門」「陸奥」ができる1921年までの年号をとっており、縦軸はトン数を表しています。赤は国産、黒は輸入です。輸入した船をみると、例えば最初はイギリスの造船所等から小さな船を輸入し、そのノウハウを取得して横須賀造船所で国産の小さな船を作りはじめました。そして1905年(明治38年)に日本海海戦がありますが、「三笠」はそれに滑り込みセーフという形で輸入されてきたわけです。その後国産の大きな船を製造できる技術力を短期間に得て、1920年頃には、世界にトップクラスの「長門」「陸奥」ができるわけです。その後「大和」「武蔵」ができるまでは日本の象徴的な軍艦でした。
「海軍工廠」というのは、丁度1905年、日露戦争が始まる少し前に「横須賀造船所」から 「横須賀海軍工廠」という名前に変わっています。その時に呉、佐世保、舞鶴に「海軍工廠」ができ、まさに横須賀で醸成されたソフト、ハードを含めた近代化の技術力が日本全国各地に広がっていったと思います。
1921年(大正10年)に呉で「長門」が、横須賀で「陸奥」が造られます。陸奥は3回程大きな 改装工事を行っています。この写真は就役当時のものです。ブリッジ辺りはそんなに大きくなく、特徴的なのは真っ直ぐな煙突が2本あります。それからこれは昭和期に改装した際のもの。前の煙突が後ろに 曲がっています。これは排煙が艦橋に上がってきて見えなくなったりするのを防ぐために後ろに曲げたの です。1936年(昭和11年)に横須賀海軍工廠で改装工事が始まると、1本煙突になります。 それは必要な出力を1つの釜で出せるようになったのでしょう。「陸奥」と言いましても色々な写真があり、時代時代によってその形状が変遷しています。
陸奥の砲塔は前から1番・2番・3番・4番とありますが、後部の4番砲塔、これが新しく近代化 された砲に交換されます。古いのは江田島の海軍兵学校に持って行き、当時教材として使われました。 その後「陸奥」は連合艦隊の旗艦として色々働いてゆくわけですが、不幸な事に1943年(昭和18年)に広島県の柱島沖で3番弾庫が爆発。轟沈し、約1,100名近くの将兵が亡くなります。何で爆沈したのか、様々な憶測を呼んでいますが、3番弾庫が爆発した事まではわかっているものの、結局原因不明というのが調査結果です。誰かが火をつけたのではないかとか、当時の火薬自体の安定性がない為に誘爆して しまったのではないかとか、色々な説がありますが、本当の事はわかっていません。
その後1971年(昭和46年)に引き揚げられるわけです。これが引き揚げ中の4番砲塔の2門の 写真です。1門は呉に。もう一つは船の科学館に展示されます。これが今回の主題であります主砲です。
ご存知の様に2020年はオリンピック・パラリンピックです。お台場地区の再開発計画、そして大型客船の桟橋工事が始まります。船の科学館が所有する「陸奥」の主砲はこのままでは、行き場所を失い廃棄処分にせざるを得ません。本主砲は横須賀でお嫁入りしたのですから、そこに里帰りさせた方がいいのではないかと思い、本活動を開始したわけです。
では今どの様な状況かと申しますと、「陸奥」の主砲は、船の科学館の正面玄関前に展示されています。犬のタローとジローで有名になった南極観測船「宗谷」もあります。全体的に見ますと、ゆりかもめで フジテレビの横を通り、「船の科学館」駅で降りると船の科学館です。
いま東京オリンピックの関係でIR法案いわゆるカジノ法案の話しがありますが、決定はされていないものの、何れにしてもこの辺りが再開発されるという事です。
また2018年迄には大型客船の桟橋が船の科学館の前に建設されます。何故ここかというと、奥に レインボーブリッジがありますが、建設当時は相当な大型客船が通れるように設計されたのですが、今の 客船は更に大型化している為に、レインボーブリッジを通り東京湾奥にアクセスできず、ブリッジの外側に桟橋を作る必要があり、大型桟橋と道路を作りお客さんを東京へ運ぶ構想なのだと思います。
これが出来てしまいますと、この主砲は外へ移動することができません。主砲は約100トン・20 メートルもあり、陸上輸送は到底無理です。一時期靖国に持っていくという話がありましたが、それには 都内の道路の色々な取り回しがあり結局無理でした、半分に切らなくてはいけません。"それでは意味がないことだね"という事で海上輸送をしなくてはいけません。要はクレーン船で持っていくしかない。 そうなるとここに構築物ができてしまうと、もう引き出せない。結局そこで廃棄処分にせざるを得ない。 そのまま放っておくわけにはいかないだろう。ということなのです。
主砲は重さ102トン。1トン近くの砲弾を30キロくらい飛ばせます。ここから横浜くらいまで飛ばすわけで、ものすごい爆発力です。鉄砲といいますと単なる鉄の塊で、"なんだ、鉄の塊を持ってきたってしょうがないじゃないか"という気持ちがあるかもしれませんが、中身は当時のハイテクの塊です。当時日露 戦争が始まる頃迄はずっと輸入に頼っていた訳ですね。1900年から1920何年位迄の20年間で外国からの技術を導入し、自分たち独自で造り、この時期に40センチ砲を創るのは世界で日本だけだったんです。世界の主流は36センチ迄。40センチ砲というのは日本独自の技術でここまでやってきたんですね。
ちなみに海上自衛隊の主力イージス艦「あしがら」は5インチ砲です。現在、世界では5インチ砲以上はありません。5インチ砲が主です。当時に比べれば性能も格段に良くなっています。
主砲の中は4層構造になっています。これを造るには26程の工程があり、最初は鉄の塊です。これを 圧延していくわけです。2層目のA筒を垂直に吊るし温め、少し膨張したところへ内筒を中に押し込み、 焼きなましをして強度を上げる。その後ワイヤーで巻いていく、これは日本独自の技術と思います。次に 外筒Bをその上から入れ込み、それで成型するために最後にジャケットを入れる。これが4層構造で出来ているということであります。当時のハイテクとしてここまでできたのは、江戸時代の刀剣だとか鋼材を鍛錬させる技術、日本刀の技術であり、そして当時の職工さんの技術、こういうものが融合してできたのだと 思います。
それからソフト面として、製鉄所というと鉄を作るだけというイメージですが、当時は鉄器を作る ところを製鉄所と呼んでいたそうです。釘やトンカチを作ったり、当時の横須賀製鉄所は色々な物を作っていた総合カンパニー・総合工場で、近代工業に必要な鉄器類を全部製作していたようです。
更に江戸時代には月火水木金土日なんて概念はなかった訳で、当時の人々は時間的な概念もあまりなく、朝、出勤して仕事をして帰るというシステムでした。そこにフランスから、これはキリスト教なのでしょう。日曜日は休み。また定時出勤・定時退庁というシステムが導入されました。また製鉄所の中での教育や医療等、様々な日本の近代化を支えてきたシステムは、実は横須賀製鉄所で育まれたのだと思っております。
実は私自身も夢を持っております。"主砲,鉄の塊を持ってきてそれで終わり。"ではなく、横須賀は 本当に日本の近代化を支えたにもかかわらず、これは極めて残念なのですが、富岡製糸場は世界遺産になりましたが、横須賀製鉄所は世界遺産にできないのです。しようと思ってもできない。何故かと言うと、 現在も米軍第7艦隊が今まさにアクティブで使用しているのです。だから世界遺産にできない。
しかしながら日本の近代化を支えたのは横須賀からであり、"この横須賀には色々なところにそういう ものがいっぱい残されている。そういうものを村おこし・町おこしにもっともっと使っていきたいなぁ。 起爆剤になればなぁ。"というのが私の夢であります。ということで主砲を一つ持ってきて"はい、これで終わり。"ということではなく、後期高齢者になっても、もう少しやっていきたいなあと思っています。
当面の話として、2015年11月15日で横須賀製鉄所起工150年になります。「陸奥」とは直接
関係がありませんが、こういうイベントで町おこしをやって盛り上げたらいいんじゃないかなと、ネタは
沢山あると思います。それから日露戦争終結から来年で110周年です。来年は色々エポックの年です。
「陸奥」の主砲は2016年迄に何とか横須賀に持ってきたいなぁと、準備しております。
現在の状況ですが5月頃から署名活動を始め、現在市内外3万名近くまで何とか集めることができ ました。それをもって船の財団の方に「これだけ署名が集まりました。だから譲渡お願いします。」ということで、8月4日付で船の科学館にお願いし、今は船の科学館の方で「受理しました。譲渡するかどうか 検討し、お伝えします」という段階になっております。
その辺りのところがはっきりした段階で、移動させるのもそれなりの経費がかかりますから、次の フェーズで具体的な募金活動を行いたいと思っています。それは皆様の浄財でやらざるを得なく、 1年程かけて浄財集めに奔走しようと思っています。是非ともご賛同頂けたら、少しでも結構ですので 浄財を頂ければと思います。
そういうことで何とかこれを成就させ、これをきっかけに横須賀が盛り上がる。特に若い人たちが こういう事をやって、色んなビジネスチャンスに繋がればと思っております。
"定刻"10分前ですが、帝国(定刻)主義者じゃありませんので、これで終わらせて頂きます。(笑)
今日はどうもありがとうございました。