<新会員卓話 2> 「 糖 尿 病 と 人 生 」
中 島 茂 会員
皆さんこんにちは。結託して悪いことをする医者の中島です。
実は20年ほど前、藤沢市民病院の時に卓話をしたことが あり、1時間ぐらい平気で話したのですが、その時には緊張なんて全くしていなかったのですが、何故か今回は超緊張をしています。原稿も6時間くらい読む練習をしたのに、緊張しだして昨夜は眠れませんでした。なんでこの年になってこんなに緊張しているんだ。という感じです。なので、原稿を読ませてもらおうと思います。
表題が"糖尿病は人生だ"というのが私の持論です。専門が糖尿病メインのクリニックをしていますが、その経験からこう思っています。自己紹介と言うことなのでとりあえず、まず私のこれまでの拙い人生を語らせていただきます。
まずは宣伝です。横須賀共済病院の入り口の交差点のところに中島内科があります。2階と3階で開業しています。2階が診療室で3階がホールになっていまして、 ここでは糖尿病患者さんの食事療法やスペースを利用してフラダンスをして運動療法を薦めています。また、餅つき大会(吉田市長も参加)や観音崎にハイキングに行くなどの運動療法に繋がるイベントもしています。
今日は"自己紹介をしろ"ということなので、宣伝はこれくらいで終わりにします。
私の生まれは昭和23年1月8日。東京門前仲町の疎開先の臨海小学校で生まれたそうです。親父は 真面目な警察官で母は小学校の教諭という賢い家庭に生まれ育ちました。そのため今では反動で超柔らかい人間になってマズイなと思っています。2歳の時に世田谷の都営住宅に引っ越して来まして、高校時代まで住んでおりました。家賃が月額980円だったことを何故か今でも覚えています。
このころは外で遊んでばかりで勉強のできない劣等生でした。その頃の世田谷といえば一面、田んぼだらけで、ドジョウやザリガニを捕って遊んでいました。小学校の遠足で江ノ島に行った時の集合写真では隣の 女の子の方を向いて前を見ていません。このころからの女好きというのがバレちゃっています。
中学時代のクラブ活動で所属していたのはハンドボール部で、ハンドボールに出会ったのが人生一回目の転機となりました。世田谷工業高校の付属中学で、中高とも男子校で非常に女性に憧れを持って生きておりました。そんな多感な中学生であった時に、高校でハンドボールの関東大会が開催されました。顧問の先生が菊花学園という女子高と練習試合をさせてくれ、この時の興奮が私の第一回目の人生の目標を"ハンドボールでオリンピックに出ること"に決意させてくれました。動機は不純です。
そして高校時代は、先ほどの池上さんと同じく、今、経営難で話題になっている代ゼミに通い、 ハンドボールの強い大学に入るため、かなりのガリ勉くんでした。そして今の筑波大学。東京教育大学に 入学することができました。月謝が9,800円と非常に安く、親にも「ここにしろ」と言われ、早稲田や慶応の高いところには目もくれませんでした。この大学はスポーツが盛んでほとんどの種目で大会の上位に入っていました。インカレでは大東文化などの強豪はいますが、優勝はしなくとも2位に入ったりもして います。私も勿論ハンドボールをメインで頑張ったのですが、理学部から入ったのは私だけで前代未聞、 さすがに体育学部の選手にはついていけず1年半で挫折。人生の目標を失い、しかも大学紛争の真っただ中でしたので、沖縄放浪とかビートルズの真似をしたり水商売や野獣生活をして次の人生目標を探しました。結果は「化学科に来たのだから、それをやれるだけやってみよう」ということになりました。そして放射 化学という分野で理学博士を取得しましたが、試験管を回していても面白くないしっくりこないのと、私が物より人が好きという性格なので(本当は女性が好きなんですが)、一念発起して29歳で横浜市大の 医学部に入学しました。第二の分岐点をむかえるのですが、教養免除だったこともあり、また、女好き だったことからダンス部に入り、毎日5時間の練習で学生チャンピオンにもなりました。その当時の初々 しいパートナーが今の嫁さんです。しかし実はダンスというのはパートナーとのケンカが絶えません。 そこでケンカしているときは、一人でもできるマラソンをはじめました。学生大会で優勝もしました。 ホノルルマラソンに出場した時は郷ひろみの3番前でゴールしましたが、ゴールの時に後ろが歓声で騒が しくなっていて、すぐ後ろに迫っていたんですね。医局の職員に「郷ひろみに負けたら10万円づつやるよ」なんて言っていたものですから先にゴール出来て良かったです。マラソンではサブスリーの一歩手前の3時間30秒、100㎞マラソンでは9時間半という記録まで頑張ってきました。富士登山マラソンとか 一人で出られるものもやっていました。大学生活は合計で17年間を送り、35歳で社会人となりました。
その後は、都立広尾病院で研修。藤沢市民病院消化器内科に10年間所属し、その間、"自分は運動が 好きだ。糖尿病治療には運動療法がある"と単純な理由から糖尿病内科医をめざし、横浜市大浦舟病院で5年、横須賀共済病院で5年間。そして11年前、平成15年に中島内科を開業しました。こう見ると順調な道を通ってきたようですが、実は病院を変わるごとに事件がありました。
例えば、当時の横須賀共済病院は非常に忙しくて、また糖尿病の医者が2人しかいない中で相棒が入院していまい、1人で午前中に糖尿病患者を毎日100人診て、午後は入院患者、夜は呼び出し対応というハードな生活を強いられました。頑張っていたんですが重なるストレスのため、めまいやうつ状態となり、このままでは死ぬかも知れないと一回遺書まで書きました。ストレスって人間に与える影響は凄いものだなと思いました。
それまで一般内科で患者を診ていた時にめまいを告げられても検査しても出ないので「そんなの大丈夫 だよ」とか言っていたのですが、自分がなって分かったのですが"めまいって本当に大変なんですね" 初めてストレスとは本当に恐ろしいものだとわかりました。それで、後に開業したことでストレスが軽減し、めまいとか吹っ飛んじゃいました。現在では共済病院等の大病院に患者が溜まり過ぎないように、 診療時間の連携を目指して活動しています。
これまでの人生の反省も込めて、踏まえて3年前からお遍路を始め、今年の6月に八十八か所を 結願することができました。お遍路の途中では崖から落ちて死にそうになったことも・・・一回転して 途中に引っ掛かり怪我はしたものの命拾いもしました。誰も通らないような山道だったので、下まで落ちていたらアウトだったと思います。このお遍路についてはロータリーの先輩、五十嵐先生にいろいろ教えて 頂き大変お世話になりました。
ということで、最初に学んだ自然科学というのは理論どおりいかないといけないもので、ところが医学は全然理論的にはいい加減でそのとおりに行かないもので、人間科学は大変難しい分野であると感じて います。人にはそれぞれの人生があり、一人ひとりを大事にし、この人生を無視した医療はむなしいと思い、糖尿病を人生ととらえた診療にあたっています。
原稿はあまり使いませんでした。ご清聴ありがとうございました。