活動報告

<卓話>  「 嫁の一分『看病、介護そして相続』 」

<卓話>      「 嫁の一分『看病、介護そして相続』 」

(有)泰明商事/アイ・アールサーヴィス(株) 代表取締役会長

藤沢東ロータリークラブ2012~2013年度会長

入 澤 初 子 様

3076.jpg 皆様こんにちは。藤沢東ロータリークラブに所属しております入澤でございます。本日はお招き頂き  まして、ありがとうございます。普段は実は鈴を転がしたような声が出るのですけれど、ここ三日ばかり とても涼しゅうございましたね。あれで風邪をひきまして、ちょっとお聞き苦しい声になっていると思い ますが、宜しくお願いしたいと思います。

 先ほど澤田さんからご紹介いただきましたけれども、歳のことは言うななんて何か怒っていましたけれど、(澤田さんとは)実は中学1年からの付き合いでございまして、もう半世紀過ぎた付き合いをしております。彼女が横須賀に卓話に来るようにというので、私の場合べつに学歴が高い訳でも知識が一杯ある訳でもないので、お話しするようなことは無いんじゃないのと言いましたら、あなたは色んな経験をしているから、 それをお話しなさいと言われました。これから我々が行く道でもあるし、もしかしたら後輩が追っかけて こなきゃならない道でもあるかもしれないから、まあ来てみてというお話をいただいたんです。受けちゃってからちょっとやめておけば良かったと思ったのですが、こちらのクラブは大変本当に会員の方も大勢いらっしゃいまして、また今年はガバナーの輩出をされたクラブでもあります。そういう大変歴史のあるクラブに私如きが来て、こうです、ああですというお話もないのですが。

そういうことで今日表題に掲げさせていただきましたけれども、私がこの歳生きてくるまでの半分は看病と介護とに明け暮れました。仕事をしながらですからかなり大変だったのですが、その時はまだちょっと歳が若かったのであまり苦にもならずに過ごせたと。私が皆さんの前で話をするときに、これは私の特徴だよと多分こういう経験したこと無いんじゃないのと言いたいのは、私一人で5人の喪主なり施主なりをやってお葬儀を出しました。そしてうちで働いていて偶々身寄りがなくなった方の葬儀まで出したんで、何か私は職業替えをした方が良いんじゃないかなと後で思ったりしたんですが、まず看病の件になりますと、結婚して間もなく私の父が最初に胃がんを患いまして、それから2年おきに切りまして10年寝込みました。70で亡くなったのですが、周りの方からは早かったねと言われたんですけれど、看ていた私にとってはいや10年は長かったと実は思いました。なぜ私が看なければいけなかったかというと、私ひとりっ子で嫁に行っちゃったんですね。だから自分の親が二人、それで行った先に親がおりましたので、親四人いる訳ですね。結婚する時やめようかねという話も出たのですが、夫が、夫になるべきだった人がですね、お前の親は俺の親にもなるんだからと言ってくれたので、ああそういうものかなと、もの凄く簡単に考えちゃったんですが、実家が横須賀で私は茅ヶ崎に居ます。これだけ離れていますと、いざ具合が悪いと言われても、本当に来るのも大変、帰るのも大変。変な話、子供を背中に背負って運転してきたこともあります。下へ置くと泣くもんですからね。

それ(父)を見送ってやれやれと思ったところ、今度は姑が最初に卵巣破裂というものをやりまして、その前にちょうど義父が舅が風邪がきっかけで、この人が大変酒飲みだったんですけれども、血液の中にアルコールが入ったということで、もう葬式の支度をした方が良いんじゃないかっていうくらい悪かったんですが、この人がまだ家に寝ているうちにその姑にその卵巣破裂をやられてしまって、もう1カ月半くらいですね、どうにもならなかったんです。まあまあそのうち丈夫になって良かったなあと思っていましたら夫が発病いたしまして、C型肝炎でした。

肝臓が悪い方いらっしゃいますか。お医者さんに悪いよと言われた方。まず家族でね、悪いよと言われるとお医者さんからのお話も勿論聞きますが、いろいろ本を買ったり、体験談を読んだりするんですけれど、はっきり言って何の役にも立ちませんでした。例えばね、肝臓が悪くなって段々に悪くなると肝硬変になって肝がんに至ります。あるいは肝臓が非常に悪くなってくると掌が赤くなります。そのうち手ばたき運動が始まります。もっと酷くなると脳症になりますと書いてあるのですが、手ばたき運動って何やるんだろう、鶏じゃないけど(身ぶり手ぶり)こうなっちゃうのかしらとか、いろいろ思っても現実を見ていないから分からないわけですね。私のところでC型肝炎インターフェロンとかいろいろやったんですけれども、最終的に10年病まれて、まったく起きられなくなったのが3年11カ月でした。もうあらゆる病院を巡りましてですね、今、高度先進医療と言いますけれども、そこへ辿り着くまでが大変なんですね。もし関係者の方がいらっしゃったら大変失礼なことを申し上げるかも分からないのですが、まずそのドクターに辿り着くまでの紹介をしてくださるドクター。どこかのラインがないと行かれないんですね。もう本当に最終的に私のところの場合も諦めようという段階まで行ったんですね。

こちらのガバナーがガソリンスタンドをやってらっしゃると伺っているのですが、私のところも夫がガソリンスタンドをやっておりまして、それを私が手伝っていたんですが、もう店も閉めよう、こんなことやっている場合じゃないからということで、もう早々に店をたたみました。ここは話が前後するのですが、私は娘3人の子持ちなんですね。この子たちがやらないっていうものですから、じゃあ閉めるっきゃないねということで閉めるに至ったんですが、もう思い出作りするしかないねと。何とか移植という手はないものだろうかという話になりまして、いろいろお尋ねしたんですが、いわゆる倫理委員会で、これが2つ3つの子であれば書きましょう。だけれどももう60を超していらっしゃるのだから60超した人にはまずそういう

枠はありませんと断られてしまうんですね。じゃあもう頼るべき所もないなあ、困ったなあというところで、亡くなる前の暮れに病院で「もう仕様がないね、このまま出てもらえないか。」と言われて、とりあえず3年9カ月おいてもらったので、やむなく出ました。

そんなところにどうも引き受けて貰えるドクターと連絡がついたので、東大まで行ってみるかというお話をドクターの方からいただいて、すぐ行きますということで寝台車をチャーターいたしまして、私もあんまり病院にいたものですから、守衛さんたちは皆私を看護士さんだと思ってましてですね、朝早く行ったり夜遅く帰ったりすると「ごくろうさん」って言ってくれたんですね。「今日は夜勤ですか」とか言われたんですけど、偶々総婦長が自分が休みを取って一緒に付いて行ってあげましょうと言ってくださったので、本当に点滴やら何やら管ぶら下げたままですね、民間の寝台車を頼みまして、東大まで行きました。それで2時半の予約ということなので2時までに行ってくださいよと紹介してくださったドクターに言われたんですが、2時半過ぎても3時半過ぎても呼んでいただけないんですね。診ていただけたのが8時でした。夜の8時です。なんでそうなったかって言うと、そのドクターが世界的に有名な教授だったので、ちょうど伺う一週間前に日刊紙で新聞で取り上げられてしまったんですね。そうしたらやっぱり何々大学の何々教授からのご紹介ですみたいな方が一杯いらしていて、私は一人ベッドに寝かせておかなければならないので、娘3人を連れていったんですが、「困っちゃうねこんな遠くから来たのに。何時に終わるのかしらねえ。」という話をしていましたら、隣にいた方とどちらからいらしたんですかって話になったんですね。そうしたら「これちょっと見ていて貰えますか。私、飛行機とホテルキャンセルして、ホテルを取り直さなきゃいけないから。」と言われて、どちらからですかって聞いたら、隣の方は九州から来ました、その隣の方は沖縄から来ました、反対側の人は北海道なんですと言われて、えっ神奈川県内だから我々近かったんだと反省したんです。

とても良い先生で、開口一番こう仰ったんですね。「大変長くお待たせしてすみません。やむを得ずこういう結果で今日たくさん患者さんがいらっしゃって、どなたをお帰しする訳にもいかないので。」というお話があって、ああ良い先生だなと思ったら、「あれ、息子さん連れて来いって言ったのに女の子ですか。」って言うので、うちは息子いないんですっていう話をしました。なぜ息子じゃなきゃいけませんでしょうかって伺ったら、男の肝臓と女性の肝臓はどうも違うらしいんですね。男の子からはお父さんにやることは出来るけれども、女の子からやることは出来ないって言ったので、私は女の子を卒業しているので私では駄目でしょうかって伺ってみたら、あんたは小さいから駄目と言われたんですね。次の言葉がすごく衝撃的で「ところでこれからお話しいたしますけれども、お金ありますか。」って言われたんです。そうするとうちの娘はものすごくびっくりして私の顔を見る訳ですね。するとドクターが「昔は医は仁術と言いました。けれどもこれからお話しすることは、お金が用意できない方にお話ししても時間も時間ですし、時間の無駄でございますので。今は医療を受けようとするにはお金が掛かるんです。これから言う金額が用意できますか。」と。そう言われてもいくらの事かわかりませんので、じゃあどのくらいでしょうかって伺ったら、「最低7千万円、それ以下というのはまだ聞いたことがありません。1億を超したっていう話も聞いたことがありません。7千万から1億ですが、ご用意できますか。」って言われたので、娘はびっくりしてしまって、娘たちは経済の事わかりませんから、私の顔見る訳ですね。わかりました(用意)いたしますって言うと、追っかけ「OKが出たら3日以内に振り込んでいただかないとキャンセルになります。」って言うんですね。うーん何とかなるだろうではなくて何とかしなくてはいけないんだということで、わかりましたと。

アメリカで移植をしようという話なんだけれども、前はかなり数があったんですが、今はアメリカ人がアメリカの国民を優先しろと言って、アジアに対する枠はいくつです。そのうち日本人が受けられるのが今年はあと3つなんです。だからこのうちの一つと交渉しなければならないのでというお話がありました。日に日に悪い状態であったので、こんな状態で連れていけますでしょうかって伺ったら、だからお金が掛かるんですって言われたんですけれども、行く体制としては東大の方で医者が5人行きます、看護士が何人行きます、当人はコクピットの後ろにベットを据えさせて連れて行きますというお話で、「引き受ける色んな大学の担当の先生がお見えになったとき見せますので、引き受けるという所が出たならば、3日以内にお金を振り込んでいただくんですよ。」と再三念を押されて帰って参りました。

帰る道すがら、上野の駅前を通るもんですから「ねえ、ここで降りて募金活動する?」とかって冗談言いながら帰ってきたんですが、都合五箇所の大学病院から見に来てくださったんですけど、歳も歳だったのと肝硬変が癌に移行しつつあった段階だったので、最終的に5つ目に来られたテキサス大学病院が受けて下さるという話になりました。これがまたアメリカ大使館行ったり何なり大変なんですよ本当に。うちの地元でいえば河野洋平さんですね、当時ちょうど外務大臣やってまして「大使館まで行かせたはいいんだけど、返事は来ないし、許可は下りてこないし、どうしたらいいんだろう。」って言ったら、洋平さんの叔母に当たる人が私の友人でして「行ってあげたいんだけど洋平は今外務大臣だから、太郎に行かせましょう。」って即言ってくださって、御親切に家まで来て下さったんですね。それで娘を連れて大使館まで行って下さいまして、もう切ったら2年は向こうに居てくださいというのが約束なので、要するに当人の渡航許可とか付き添いの者の看護するための滞在許可っていうのを下さるんですね。「その振り込むお金は何に使うんですか。」って聞いたら、まず向こうの病院は長く置いてはくれないと。病院の敷地の中にコンドミニアムがあるからそれをまず借りる費用とか、病院から看護士が通うようになるのでその費用とか、便利な所ではありませんからレンタカーの費用とか、お手伝いの費用とかってそういう諸々のものを含んでですって言うんですね。だけどその渡航許可というか渡米許可を貰うのは、本当に変な言い方ですが財産調べです。「預金の残高はいくらありますか?土地は持っていますか?家は自分の家ですか?例えば向こうから帰るといった時に引き受け手はありますか?」って。結局よくよく聞いてみたら不法滞在になってしまう人もいるらしいんですね。それでそういうことを言っているらしいんです。

お蔭様で行く話が決まったら病人が大変元気になりまして、「行くの?行くの?」ってことを尋ねるようになりました。それまでは目を瞑ったきりだったのですが、「行くのよ」って言ったら初めて「お金ある?」って当人が聞いたんですけれど、親は親で明治41年生まれの人ですから、そんな話が出た時にうちの娘たち、当人からすれば孫ですけど、彼女に「あのね、パパは大したもんだよ。アメリカにレバー買いに行くだとよ。」と言ったといって、もう家中で大笑いになったのですけれど、年寄りが知っていた英語がレバーだけだったというので「うーん、確かにレバーだね。」という話をしました。そういう希望は持って、ただ向こうに行って私が英語が喋れないので、これって指差して買えるものは買えるだろうけど、ほかのものは無理だろうというので、血圧計から変な話尿瓶までたち揃えましてですね、荷造りしてもう行くばっかり、あと一週間で行くよと言った晩に急変しちゃって亡くなっちゃったんですね。

荷物を出すばっかりになっていたんですが、当人が結構お洒落な人でして、飛行機に乗っていくのにパジャマじゃ行かないとゴネまして。藤沢はさいか屋さんがあるのですが、さいか屋さんを呼びまして病院で採寸させて、毎日毎日腹水が溜まるので、お腹が出たり引っ込んだりでウェストの寸法が定まらない訳ですよ。それでも嫌だと言ってジャージで後ろはゴムで前立てはちゃんと男物に見えるようなものを作るんだと言って、作ったのはいいんですが、その仕上がりが一日遅れたんですね。これすごくラッキーなことでして、これが順調に出来ていたら荷物も行っちゃったところだったんですけれども、まあそんなこんなで大変がっかりすると同時に「そういう運命だったんだね。向こうに連れて行ってもウェイティング出来なかったよね。」っていう風な話は、親子の間の慰めの言葉です。

さっき掌赤くなるよ、手ばたき運動があるよとか、脳症になるよとか言いましたけど、脳症ってどうなるんだろうと。これ本当に恐ろしい話でした。私、夜中にふっと何か物音するなって目を開けたら、箪笥の引き出しっていう引き出しが泥棒が入った後みたいにみんな広がっちゃてて、ふっと見たら当人がですね、もうこれ恥になりますけど、裸の上にネクタイをしてパンツを履いて靴下を履いているんですね。「何してるの?」って聞いたら「会社に行くんだ。」って言うんですよ。「あ、そう。」って言って。これはとうとう狂ったなって私は思ったんですね。それで別の部屋にいる娘にそうっとちょっと見に来てくれないって言いましたら、娘がそうっと見に来て「ああ、これ脳症よ。」って言われて「これが脳症っていうの。」って。実際にずっと付きっ切りで看てきた私でさえも、いろんな本を読んだ私でも実行動っていうのは全く予想がつきませんでした。それで病院行こうって言ったら、当人は行かないって言うんで次の朝婦長さんがですね「パパ行くよ。」って迎えに来てくれたんですけれど、まずそれが肝臓病の末期でした。

肝臓は物言わぬ臓器って言われてまして、痛いとか苦しいとかっていうのはないので、どうぞ皆さんも十分お気を付けになってください。何でも早期発見、早期治療だと思うんですけれどね、やっぱり馬鹿にしちゃいけないと思うんです。夫なんかもう最初に言われた時に十分養生してくれれば良かったんですが、かなりお酒が好きだったので、じゃあ日本酒でなければ良いんだろうって、酒飲むなって言うからビールにしたっていうような人で、そのうちアルコール度が低ければいいだろうとか、ノンアルコールならいいんじゃないかとか、もう本当に離さない人で、結局自分が自分で寿命縮めたなって思っているんですが。

さて困ったのが同時進行で舅と姑が、普通の事がお互いに意思の疎通ができなくなっちゃたんですね。うちにそれが二人いるし、まったく父は最初に痴呆が来る前に歩けなくなっちゃって、車いすだったんです。「あのねお婆ちゃん、私はパパを看なきゃいけないから、自分の夫は自分で看るんだよ。」って言ったら、それをきっかけにボケちゃったんですね。うちの子供はお婆ちゃんのことを「あのね、あれは逃避型のボケよ。」って言ったんですけれど、それまで嫁が看ててくれた自分の夫、お爺ちゃんをですね、パパが具合が悪いんだから、自分の連れ合いは自分で看るのよって言ったのがきっかけだったんじゃないかねって話が出るんですが、やっぱり言わなければ良かったと今になれば思うんですけれども。

ちょっと言葉は悪いですけど、アルツでもボケでも全く寝たきりになってくれると少し楽なんですが、まだらな時が大変なんですね。寝ても起きてもいられない訳ですよ。するするするする抜けられちゃいまして、もういくつ鍵を付けようが、踏み台持ってこなきゃ届かない高い所にしても、一晩掛かっても出て行く時は出て行っちゃうんですね。それで非常に困りまして、しまいにドアの外、いわゆる表から鍵を付けたんですね。そうしたら宅急便のお兄さんが「奥さん、奥さん、鍵のチェーンの付け方が違ってるよ。取り替えてやろうか。」って言うから「いいの。うちはね、外から入ってくる人を防いでいるんじゃなくて、家の中にいる人を出さないようにしているんだから。」って話もしたことがあります。この人たちを残して逝かれて本当に困ったなあって思ったんですけれど、夫も死ぬ間際に「助かるんだか、助からないんだか教えてくれ。」と私に言ったんですね。「助かるでしょ。なんで?」って言ったら「いや、この親二人置いていったら、お前がきっとえらい苦労するに違いないから、殺してでも一緒に連れて行く。」って言うんですね。寝ている人が。自分が立ち上がることも出来ないのに何でこういうことを言うかなと思いましたけど、まあある意味愛情だったんじゃないかなとも思っています。

ところがもうそのくらい分からなくなってしまうと息子に死なれても分からないんですね。時々一週間に一回くらい仏壇の写真の前を通りかかって「えっどうしたの?」って言いう訳ですよ。「亡くなったでしょ。」って言うと、誰も私には言ってくれなかったって大騒ぎになるんですね。それでもうこの人たちがいくつまで生きるのかなあと思っていましたら、ちょうど夫が亡くなって7年で、その間に私の母が横須賀で一人暮らしをしていたんですが、食道がんになってしまいまして、どうしようって話になりました。うちに入れる入れないって話が子供の間でも出たんですけど、ずっと一人で暮らしている人をうちに連れてきて、ごはんの時間ですよ、風呂は誰が先ですよなんていうのも可愛想だから、当人が来たいって言ったらで良いんじゃないのって話をしていました。ただとうとう医者にも連れて帰ってくれって言われて「一人暮らしで行く所無いんですけど。」って言ったら、ホスピスを紹介しましょうと言われました。ところが、当時はホスピスを経営していらっしゃる所は、それこそ小田原から久里浜の方まで見に行ったんですけど、ほとんどがキリスト教でした。そうすると私の嫁ぎ先が南無阿弥陀仏で自分の親が南無妙法蓮華経だったんですね。これ死ぬ時にキリスト教だったら迷っちゃうんじゃないのっていう話になって、結局うちに引き取ろうという話になりました。ところが家に引き取るって言ったら、亡くなった夫の兄弟に大反対されましてですね、半ば喧嘩ごしでうちに入れたんです。

二階に私の母が長女の隣で寝ている、一階にお爺さんとお婆さん(舅と姑)が寝ていると、朝の6時になると「はーい」って号令掛けて「二階のバイタルは誰、下のバイタル誰、おむつ誰が換えるの?」みたいなことで。舅が大変体格のいい人で、180何センチありまして体重が100キロからあったんですね。だから娘が「皆さーん」とか呼び掛ける訳ですよ。食事をしていても、おむつを換えるの一人じゃ出来ないんだから皆で起こすんだって言って、「皆さーん」と呼び掛けるんですね。「皆さんじゃなくて、あと5分待って。それやっちゃたらもうごはんが喉を通らないから。」っていう状況で看ていたんですが、病院でも入れようか、施設に入れようかって話は出ました。でも当人たちが嫌がったんです。「ここの家で俺たちは生まれ育ったんだからここに居るんだ。」と。

私いつもこの話をさせていただくときには、皆さんに「これから歳とっていくんだからお前らの世話にはならないとか言っちゃ駄目よ。」って言うんですけど、うちの姑はさんざん私が嫁に行った頃からずっとある歳くらいまで「嫁の世話には絶対ならん。」と言ってたんですね。だけど本当に体が動かなくなった時

の第一声が「ええ、初、頼むよ面倒見てくれよ。」って言ったんです。私はもうさんざん跳ねっかえりで二十歳で嫁に行ったもんですから、多分親も一杯気に入らなかったこともあると思うんですね。だからいろいろ小言も言われましたし、嫌なこともあって、この人が倒れたら絶対跨いで通ろうと実は思っていたんです。「私あの人が倒れたら知らないよ。跨いで通るよ。」って宣言していたんですけど、これが持って生まれたお人好しの性格が「頼むよ。」って一言で、じゃあ私がやらなきゃ頑張らなきゃっていう風に移っていっちゃうんですけどね。

私はこれからご自分が例えば老後、今介護施設も物凄く一杯ありますけれど、ご自分が例えば意思疎通が出来なくなったり、鬱になったり、お病気をしたりしたその後ね、どなたと暮らすのかというのを元気なうちに考えて宣言しておいてほしいと思うの。俺は長男と一緒に暮らすんだよとか、私は長女と一緒に暮らすんだよとか、でも若い者に迷惑かけたくないから、こういう施設に行きたいよとか。もし、施設に行きたい方、それが自分の希望という方がいらっしゃるなら、私は早くからいろいろな所を見て歩くことをお勧めします。私も一杯、もうあらゆる所を見に行きましたけど、ここなら親を預けてもいいという所は、はっきり言ってありませんでした。まして二人部屋も無いんですね。大体、男は男、女は女で別れさせられますし、うちのお爺ちゃんはボケたと言いつつ最後までかなりしっかりしていたので、「絶対君と離れない。」お婆ちゃんとですね、と言って、亡くなる一年前まで日に五合のお酒を飲んでいました。朝一合、10時に一合、お昼に一合、三時に一合、夕飯に一合。よくこの人お酒入るねって言っていたんです。寝込んだせいもあるんですけど、酒が切れて1カ月で15キロくらい体重が落ちました。そのくらい落ちるとかなり介護も楽になりました。ところが夫の兄弟が来て、飲ませないでちょうだいって言う訳ですよ。「だけど飲ませないでって言ったって、飲める人が飲めなくなったらお仕舞だと思うよ。歳で耳が悪いし、テレビも補助器を付けないと音声が聞こえない、それで自由に立ち歩くこともできなかったら、一日に何回かの酒飲むのはいいんじゃないの。私の実家の父親ももう酒いらないって言ったら一カ月で死んだからね。」って言って、そのままの生活が続いたんですが、一月にお屠蘇を飲んでいて倒れまして、そこから飲まなくなったんですね。最後の11カ月は全く点滴だけです。経口するものが何にもない、点滴だけです。これ24時間ローターで本当に上手に落とすんですね。機械ってものは凄いものだと思ったんですけれども、それでちゃんとお小水も便も出るんですね。

在宅専門のお医者さんと契約しまして、来ていただくことにはなっていたんですが、盆暮れ正月にどうしましょうって言うと「歳だから仕様がない。息が止まったら電話ください。」って言うんですね。もう娘がものすごく怒りましてですね、変な話ほかの医者に替えてくださいと言ったくらいでした。最初に義父が夫が亡くなってから7年目に97歳で亡くなりました。その年の8月に私の母が84歳で亡くなりました。その翌年の3月、義父が発った同じ日に姑が亡くなりまして、何年これをやるのかと思ったら、片付くときって片付くのねって言って、また娘に怒られました。本来ここから相続の話もしたかったんですが、ちょっと時間の配分が悪くてお時間になりそうなので、またの折がありましたら、相続の事をお話しさせていただきたいと思います。まずはお医者を選ぶこと、自分の健康に気を付けること。日本の国がこんなに介護の人が多くなったのは、私は一つには家督制度が無くなったのがいけないというのと、それからベッドの生活になったのがいけないんじゃないかとよく言うんですけど、もう一つ大きな要因は給料の振り込みだと、これが三悪だと私は言っているんです。これで親の地位がすごく軽んじられてきています。私はそういうこともまた議論する折があったらしていただけたらいいんじゃないかなと思っています。ご清聴いただきましてありがとうございました。

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