活動報告

<卓話>新会員卓話

2012年12月7日 第2998回例会

<新会員卓話>                             薦 野   彰 会員
20121207.jpg 今年4月に小沢名誉会頭のご紹介で入会させて頂きましたグローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパンの薦野彰と申します。非常に長い横文字の会社名でございますが、地元久里浜ではニュークリアと言えば 通用するかなと思っています。本日は、貴重な時間を頂き有難うございます。
新入会の皆さんの卓話を聞かせて頂く中、自分の番になるのを恐れていましたがついにこの日を迎えてしまいました。それでは、自己紹介をさせて頂きます。皆さんは江川投手が巨人軍に入団された時に確か「空白の一日」という言葉を覚えていらっしゃるかと思います。野球協定の間隙をぬっての話です。野球とは全く関係ありませんが、私にも「空白の3年間」というものがあります。本日の自己紹介の中でそこまで辿り着けるか自信がありませんが、始めたいと思います。
私の誕生日は昭和28年11月20日です。さそり座の巳年のA型で大変すなおな性格だと思っています。戸籍を取り寄せますと今は福岡県鞍手郡鞍手町長谷となっていますが、私が生まれた当時は西川村と呼ばれていたようです。この長谷という場所は山の中の奥まったところで、40世帯程度の集落となっています。さすがに電気は来ていますが、上下水道はなく、バスも電車もなく、私が就職で田舎を出て35年になろうとしていますが、新しく移り住んできた人はいないという場所です。場所的には筑豊地方の一角に位置し、生まれた当時は石炭で栄えた場所です。私のところは石炭鉱脈がありませんでしたが近所にはボタ山が沢山あったことを覚えています。まさに「青春の門」の世界です。
故郷の自慢できるものとして、鎌倉の長谷と同様に重要文化財であります長谷観音があります。鎌倉の長谷の観音様ほど大きくはなく身長2メ-トル程度の一木造りの大変きれいなお顔の観音様です。この様な田舎でのびのび育つはずだった私ですが、非常に厳しい怖い親父に育てられました。親父は15歳で行かなくてもよかった戦争に志願して少年航空兵として訓練していた時に終戦を迎えたようです。終戦直前で  あったことから訓練する飛行機もなく毎日陸上で体を鍛えていたようですが、それ以上当時の話を私には してくれませんでした。思い出したくないのかもしれません。親父は戦争が終わって長谷に戻った後   八幡製鉄所(現在の新日鉄)に入所しましたが、話に聞きますと大変な作業環境みたいだった様で、   すぐに旧国鉄の方に転職したようです。
このように大変な苦労をしてきた親父にとって、勉強しなければならなかった時にできなかったことが悔やまれたみたいで、それを私が肩代わりすることになりました。こんなことを親父に聞かれると怒られるかもしれません。しかし今になっては感謝していますが、当時は心の中では大変反発していました。   反発しながらも勉強した結果小学校、中学校の成績は自分で言うのもなんですが、大変優秀でした。
高校は当時でき始めた工業高等専門学校(高専)にするか、普通高校にするかではじめて親父と   ぶつかりました。親父は普通高校に進学して大学に行かせようと考えていましたが、私はもう勉強したく ないので高専に行って就職を考えていました。結果として親父の言う通り普通高校である、北九州八幡西区の東筑高校に進学しました。高校に進学したことで今までの重しが全てとれてはじけることになります。 わが母校の東筑高校の宣伝を少しさせて頂きますと、「質実剛健」のバンカラ(自分ではそう思っていましたが。)な学校でスポ-ツと勉強で頑張っている高校です。甲子園にも何度か出場していまして、先輩にはイチロ-を育てた仰木さんがいます。又映画俳優の高倉健さんも先輩です。
当時の福岡県の普通進学校は自前の予備校を持っていまして、3年間高校で遊んでさらに1年同じ敷地内の予備校に通うのが定番となっていました。私も同じコ-スを歩むために予備校に入学しましたが、高校生になってはじけた自分をコントロ-ルできなくなっていました。予備校には通わずに課外学習に明け暮れてしまいました。ふと気がつくと周りの友達は誰もいなくなり、成人式にも出席出来るような状況ではなく 夜しか歩かない、否歩けないような状況となっていました。ちょうど20歳の頃お袋が大病を患って長期入院したことが更に拍車をかけたようです。本当に親不孝をしてしまいました。
ある日入院しているお袋を見舞いに行きました。私をみてキョトンとしていました。しばらく会って いませんでしたので、髪形や服装が変っていて誰だか分らなかったようです。どういう格好をしていたかはご想像にお任せします。このような3年間が冒頭申しました私の青春の空白の3年間です。人生の修行にはなったと思いますが、少しいや大いにもったいないような気もします。
このままではわが人生はどうなるのだろうかと真剣に考え、また勉強を始めました。本当に一年ぶり位に鉛筆を握った自分の手が震えていたのを今でも覚えています。私立の大学は授業料が高いのでこれ以上の親不孝はかけられないと思い、国立の大学を目指しました。本屋で色々な大学の学科を調べています時に 九州大学工学部応用原子核工学科という文字が目に入ってきました。ここで勉強しようと決め、原子力の道に足を踏み入れることとなりました。大学は真面目に勉強し4年間で卒業することができました。
さて就職をどこにしようかと考えましたが、高校を2回卒業した私にとってはまだ就職状況が思わしくない昭和54年は厳しい状況でした。殆どの生徒が大学院に残る時代に4年生で就職するのは限られていました。それでもどうにか研究室の先生が「当時の会社の社長が大学の先輩」であることにより面接を受けて来いと言う話を纏めて下さいました。迷惑をかけたお袋に見送られて博多の駅を後にしたことを今でも覚えています。
 さて会社は横須賀にあるという事で、博多の街と比較しても勝に劣らない印象を抱いて当時の横須賀線で 東京から下ってまいりました。電車は横須賀止まりで久里浜行まで時間がありましたので、散歩しようと 外にでました。周りは海だけで何も見当たりませんでした。「騙された」と思いました。この思いは久里浜に到着すると更に騙され感が更に増幅していきました。タクシーの運転手さんにニュークリアの寮まで  行って下さいと頼んでも反応がありませんでした。
今では色々な意味で有名になってしまってタクシーで直ぐに連れて行ってくれますが、当時は本当か 嘘かわかりませんが、ニュークリアは夜勤もやっている大きなクリーニング屋さんに思われていたそうです。何とか面接までこぎつけましたが、やはり当然のこととして空白の3年間についてしつこく聞かれました。殆どノックアウト寸前で福岡に戻りました。会社からの面接結果はなかなか来ませんでした。途中で先生に当時の社長から「なんであんなやつを面接によこすのだ」という電話が入ったことを聞かされ、「あきらめ
ろ、他を探してやる。」と教授室で言われました。諦めかけた2週間後に合格の通知がきました。昭和54年の春の話です。こういう風な話をしますとつい最近のように思われますがいつのまにか久里浜に来て34年が経ってしまいました。
最後に会社について少しご紹介します。1967年に原子力発電所の燃料体製造会社として設立され、  1970年に久里浜の地で操業を開始しました。設立時の社名は「日本ニユクリア・フユエル株式会社」で ありましたが、2000年に米国のGEと日立及び東芝の設計・開発・営業と製造が統合され、2001年に  現社名に変更となりました。
設立当初から一貫して沸騰水型原子力発電所の燃料体の製造を続け、累計で80,000体を超える実績となっています。この燃料体はおよそ8体で横須賀市の1年分の電力を賄えるエネルギーを持っています。従って横須賀市10000年分の電力を作ったことになります。原子力発電は安全にコントロールすれば非常に高いエネルギ-を安定的に供給することができます。
しかしながら昨年の3月に発生しました福島第一発電所の事故により、原子力産業に対する「安全・安心」が根底から疑問視される状況になっています。原子力産業の一翼を担っている私達は、  この難局を乗り越え住民の皆様にどの様にして「安全・安心」を届けられるのか日々努力をしているところです。
会員の皆様は既にご承知かと思いますが、原子力発電所で行われている「ストレステスト」を私たちも実施して国に報告致しました。過去の自然災害を想定して私たちの工場がどこまで耐えることができる裕度を持っているのかを評価しました。結果は工場の周りの皆様に影響が出るようなことはないとの結論となりました。今後はこの報告書をもとに、更に「安全・安心」な工場を目指して改善を進めていく方針です。今後とも弊社活動にご理解を宜しくお願い致します。ご清聴ありがとうございました。
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