活動報告
<卓話> 今年の重大ニュース
2012年11月30日 第2997回
<卓話>「 今年の重大ニュース 」
今 津 弘 会員
この場で、「今年の重大ニュース」を皆様にお話しするようになって足掛け20年になります。わたし自身、戦後の日本と世界について大よそのことは見てきたジャーナリストですが、いま中小政党が乱立し、どこがどう合従連衡して政権を構築するかは福引きのガラガラポンで決めるような状態は敗戦直後を除けば経験がありません。歴代内閣の一両年刻みの浮き沈みと外交・内政の迷走を見るにつけて感じることは居るべきところに人がいない、人材が見当たらないということです。「今年の重大ニュース」に挙げた項目の1つずつを取り上げたら少なくとも10回の卓話を必要とするでしょうし、きょうは多くの政策課題について言える「人の不在」をご一緒に考えてみることにします。
その手がかりとしてお手元の刷り物の中に戯曲「米百俵」の粗筋があります。前大戦の敗色も濃くなった
昭和18年、作家の山本有三が書いた2幕物の戯曲で発売と同時に5万部を売りつくし、上演も押すな押すなでしたが、時の東条英機首相の逆鱗に触れて発行・上演禁止になりました。旧制高校に入ったばかりのわたしは上級生から発禁本をのぞかせてもらっただけでしたが、戦後に衆議院議員から戯曲の舞台である越後・長岡の市長になった小林孝平さんに復刻版をもらってこの戯曲の真髄に触れることができました。皆さんも小泉純一郎首相が初の所信表明演説に取り上げたのを思い出されるでしょうが、こういう"活きた話"を所信の冒頭に据えた首相としては「パレスチナ問題の解決なくして世界の平和はない」と説いた三木武夫首相のほかには記憶がありません。
さて戯曲「米百俵」は戊辰戦争で薩長連合軍に徹底抗戦して焦土となった越後・長岡藩にあった実話で、3度のカユもままならぬ状態を見かねた親戚筋からの義捐米百俵で学校を造るという大参事小林虎三郎と米を分けろと抜き身をかざして迫る藩士との対決が大筋です。「分ければ1人4合か5合。あとに何が残る」という小林の説得から、明治3年、後に洋学局・医学局を併設する国漢学校が発足し、そこから明治・大正・昭和の指導的人物を輩出しました。山本五十六提督もその1人でしょう。
当時、著者の山本有三はこう言っています。「賊軍として焦土になった長岡からなぜ人材が育ったのか。物がたりないのはともかく人物がいないのは我慢できない」と。それが日本を戦争に引き込んだ指導層への批判として発禁・上演禁止の引き金になりました。遠い昔の出来事ですが現在わたしたちに最も必要なものが「人」であることを学びたいと思います。
さて、これから半月の間に政局の帰趨が決まりますが、総選挙の結果は単独で議席の過半数を占める政党はなく、出戻りの自民党安倍晋三元首相を軸に政権党の組み立てが模索されるでしょう。その出来上がりがどうなるかの予想はガラガラポンにまかせることにして1つだけ身近なことを指摘しておきます。安倍総裁は小泉進次郎青年局長を自民党のシンボルとして高く評価していますが彼は人寄せパンダではありません。
父親の純一郎首相は日朝国交正常化を視野に入れながら拉致問題解決のため2度もピョンヤンを訪問しており、その経緯は労作「ペニンシュラ・クエスチョン」(船橋洋一)に詳述されています。その冒頭「おにぎり」には金正日指導者との未知の会談を前にして供応の席に着くことはできない、握り飯を持って行こうという並々ならぬ決意が記述されています。紆余曲折はありながらも拉致被害者の一部が帰国できたのもこの歴代首相のあえてしなかった訪問とピョンヤン宣言によるもので、それを継承する決意をわたしは進次郎から聞いております。
日本は尖閣列島、竹島(独島)、北方4島の領有問題で前大戦の勝利国との間に見通しのつかない摩擦を抱えていますが、それを解決する唯一、確実な道は日本が、自国の韓国併合に由来する朝鮮半島の分断・対立の解消に主導的役割をはたすことで、そのためには米朝、日朝関係を不安定にしている朝鮮戦争休戦協定の平和協定への切り替えを米国に働きかけることです。それが出来ることで日米関係が初めて友好の名に値するであろうし、中国に対しても東シナ海や太平洋への軍事進出を自制するよう促す説得力を持ちうるに違いありません。こうした外交を心得た政治家を育てることが今の日本に緊要だと思うのです。
だが安倍晋三、石原慎太郎氏らは憲法改正、国軍保持、力による国土・領海保持を自説としています。威勢のいいナショナリズムの表明のようですが、それは冷戦時代に一方の米国に肩入れするいびつな性格の延長線上にあるもので、そのあらわれが自民党政権下に始まり、やがては民主党内閣に深手を負わせた沖縄の普天間基地移転や垂直離着陸機モスプレイ配置に対する奇妙なほどの沈黙ではないでしょうか。また集団的自衛権容認の提唱も"オレの後ろには米軍がいるんだぞ"という後ろ盾をひけらかせているのではないでしょうか。
ここで重大ニュースの冒頭に挙げた山中伸弥教授のノーベル医学生理学賞に触れてみます。古い細胞や傷ついた細胞を入れ替えるために待機するiPS(人工多能性幹細胞 induced pluripotent stem cell)の樹立には気の遠くなるような研究を重ねたわけですが、それについて教授は「わたしは実験が好きだったから」と謙虚に振り返っています。ごく平凡な言葉のようですが、それを聞いたとき、わたしは県立横須賀中学で1つ若い同窓生の小柴昌俊君が大マゼラン星雲の爆発で地球に到達した粒子ニュートリオを「カミオカンデ」で捉えてノーベル賞を得たことを思い出しました。
この受賞に先立って文化勲章を授与されたときでしたか、小柴君は東大安田講堂で理系学生に自分の研究の足跡を語りましたが、物理学教室でビリだったという成績表をスライドで紹介しながら、学校の成績など生涯を決めるものではなく、どのような夢を育むかが大切だと説いて学生を感動させました。それを朋友会誌のコラムに寄稿するとき、あらためて成績表を見たとき、わたしは驚きました。理論関係では芳しからぬ評価の「良」「可」がズラリと並んでいるなかに2つの「優」があったのです。その実験学Ⅰと実験学Ⅱがキラキラと光って見えたのです。
旧神岡鉱山の地下に1千トンの水を満たし、その壁面に1千個の光電増倍管を球状に張り詰める。しかも従来の直径に倍するものを浜松ホトニクス社に"手作業"で創らせ、その上、社長に「3億円持ち出しになった」と半分は笑顔でこぼさせたそうです。こうした大空に描いた「夢」と日本在来の精密な職人的「業(わざ)」が1つになって10数億年前に遠い宇宙の星雲に発したニュートリノを光電増倍管に捉えたのです。
東京・蒲田の裏通り糀谷(こうじや)などにはミリの何分の1という単位の切裁を手作業でこなす名人
芸の作業所がいくつもあり、そこで造られる金型などが深いところで日本の機械産業を支えています。それと科学者の夢とが1つになって湯川、朝永、坂田3氏から小柴、山中両氏に繋がる日本の物理探求の星座が実現したのです。
もう40年程前、チャレンジャー打ち上げの基地ヒューストンを訪れたとき、若い研究者が言いました。「いつか Another spaceの研究をしたいのだ」と。もう1つの宇宙というのは海のことでした。人間は空高く探求の手を伸ばしていますが目の前の海に対しては「深海6500」が精一杯です。母胎を思わせる底深い宇宙が探求を待っているのです。
さて定刻になったので、もう1つ、総選挙の政党や候補者がしり込みしている沖縄について現在に生きる昔話をさせて下さい。戦争に負けた日本は周辺の国土を手放しましたが、その1つが沖縄でした。駐米大使のあとプロ野球のコミッショナーや最高裁判事を務めた"硬骨の外交官"下田武三さんの生前の述懐によると対日平和条約締結・独立に向けて戦勝大国との折衝に尽力していた吉田茂首相が、若い条約課長の下田さんにこう言ったそうです。「どうしても沖縄を手放せというならアメリカに渡そう。いつか戻ってくるような気がするのだ」と。
その沖縄復帰の曙光が見えたのは20数年後の1967年でした。
ベトナム戦争の泥沼に陥った米国にとって沖縄は北爆のB52や海兵隊の発進基地としてまさに命綱の働きをしているとき、佐藤栄作首相は沖縄の施政権を日本に戻す交渉を始めたのです。下田さんの話しによるとモスクワ大使になって1年経ったばかりで外務省事務次官への辞令が出て、意外な思いで佐藤首相に帰国挨拶をしたところ「君には沖縄の祖国復帰をやってもらう」と言われ、とっさに震源地は大磯の吉田さんだと思ったそうです。吉田さんは"吉田学校の愛弟子"佐藤首相に戦後外交の大仕事を託したのでしょう。
「沖縄返還なくして戦後は終わらない」という宣言をバネに佐藤首相はジョンソン大統領との首脳会談に臨みました。そのときの秘話は、ここにいる明野会員が防衛庁制服の総務課長として参加していた那須塩原での高級公務員講座で触れたことですが、両3年内の沖縄復帰のめどを約束させたい首相に対して大統領は友邦英国のポンド切り下げの極秘情報を披露しながら、米国の窮状に日本はどう手助けするのかと迫ったそうです。首脳2人の場合、大統領が話したことを同席の日本側通訳が首相に伝え、次に首相が話したことを米側通訳が大統領に伝える、いわば襷掛(たすきがけ)の形で進行するのですが、このときは首相が通訳の話を聞いているとき大統領は話の続きを米側通訳にするという常識外の振る舞いでした。
わたしたち記者はそんな内容も知らなければ3日間の首脳会談後にジョンソン大統領が2年後の会談で返還時期を明示する極秘の約束を佐藤首相に伝えたことも知りませんでした。これもあとで知ったことですが大使公邸での打ち上げパーティで挨拶に立った下田大使は「かつて吉田さんが話されたようになりました。日本に戻る首相ご夫妻は、もし吉田さんが健在ならば羽田から大磯に向かい、そう報告されるに違いありません」と言って号泣しました。マントルピースに掲げられた吉田元首相の遺影を仰いで佐藤夫妻が涙滂沱(ぼうだ)だったことは言うまでもありません。
1972年の祖国復帰以後、基地問題については解決の糸口はいっこうに見えません。尖閣列島の帰属については言うまでもありません。人を得ないということに尽きると確信します。
最後に一言申し上げたい。沖縄の古謡に言います。「花は紅、柳は緑、人はただ情け」と。もう一言添えれば「物事は情に叶い理に叶い、そして法に叶うべし」と。制限時間を超過しながらのご静聴に感謝いたします。