活動報告

<卓話>新会員卓話

2012年11月2日 第2994回例会
<新会員卓話>                             山 田 晴 史 会員
 本日は会員皆様の貴重な時間を私の卓話に充てていただき、誠にありがとうございます。今からどきどきしておりますが、というより10月のはじめに外木幹事より、11月2日の例会時卓話をよろしくね。と言われてから本日までなるべく考えないようにしてはいたのですが、やっぱり何かの時に思い出し、胃を捕まれる思いがよみがえり、食べれば直るかなぁ~なんて思って食べてしまい、現在87kgまで成長させていただきました。昨年の健康診断時にメタボの烙印をおされ、全国訪問健康指導協会の佐川健康相談員のもと、厳しい調整を余儀なくさせられやっと84kgになったところでしたので残念です。しかし本日が過ぎれば便秘もすっきり、また頑張ります。
 私は、昨年の9月30日に湘南菱油の渡辺ガバナー・ノミニーに前々任の松原と前任の小松に引き続きご紹介をたまわり、9月28日に新会員卓話をすませ、涼しい顔であちらに座っている宮田会員とともに、ゲストとして参加をさせていただき、多くの会員の皆様にご賛同いただき10月7日に晴れて入会をさせていただきました。入会をしたその日は、忘れもいたしません。水野会員と植田会員が卓話をされました。お二人ともお話がお上手で、私の番にはあのようにできるのかと、はらはらしながら例会に参加しておりました。が、慣れと言うものはおそろしいもので、今では食後の気持ちよさから、時々トリップしております。三田村会員には毎回気持ち良さそうですねと言われ、あー失敗、今度こそ目蓋に目を書いてこようと思ったり、つぶらな瞳の眼鏡をかけようか、いやいや根性・根性と思ったり、の葛藤です。
 あと、入会日の思い出としては、勝間会員が優しくお誕生日が一緒ね、あなたで3人目よと、声をかけてくれました。そうなんです、勝間会員と植田会員と私は6月1日生まれなんです。だからどうのということはないのですが、なんだか嬉しかったです。勝間会員ありがとうございました。また、五十嵐会員も高校の後輩だね、よろしくね。と声をかけていただきました。物井会員もそうだよとも教え下さいました。物井会員は偶然にも私の兄と3年間の高校生活を共に過ごしていたというだけでなんだか他人の様な気がしません。物井会員、可愛い後輩です。かわいがって下さい。また、物井会員といえば、6月の最終例会の時に流されたDVDの制作者です。あれは感動しました。自分の名前が出ただけで少々涙ぐんでしまいました。あれは何だったのでしょう。
また、その高校仲間というだけで、五十嵐会員が撃ち殺した?しとめた鹿肉を一緒に食べさせてもらいました。うまかったです。今度は熊の肉だそうです。あれ?もしかしたら知る人ぞ知る秘密でしたか?そうだとしたら皆さん聞かなかった事にしてください。このように、渡辺ガバナー・ノミニーが私をご紹介してくれた時には、横須賀ロータリークラブの品位が少々などと叱咤激励を頂きましたが、少しずつ横須賀ロータリークラブの会員としての自覚と品位が備わってきているのではないでしょうか?渡辺ガバナー・ノミニーいかがですか?
実は私の晴史と言う名前は、渡辺ご夫妻の一文字ずつを使用させていただきできあがっておりますので、とても他人とは思えないのです。もしかしたら他人ではないのかもしれません。何となく雰囲気が似ているところがあるような気がするのは、私だけでしょうか・・・。
 そろそろ自己紹介をさせていただきます。何度か出てきておりますが、私は1961年、昭和36年6月1日双子座で丑年の満51歳になります。横須賀の軽井沢と思われる上町で生まれ、上町幼稚園、豊島小学校、不入斗中学、逗子高校、関東学院大学建築学科という横須賀エリートコースをスムーズに進み、昭和59年馬淵建設に入社いたしました。横須賀ロータリークラブには、小学校の時に遊んだ関口会員もいます。彼は落ち着いていますのでとても同級生には見えませんが、正真正銘の同級生です。父は上町で左官業を営んでいた山田金太郎の次男、母は若松町か日ノ出町あたりで味噌や醤油の入れ物である樽の問屋を樽彦という屋号でやっていた川島彦太郎の四女の間に、めでたく授かった次男坊です。次男坊というのは、すばしっこくて、ずる賢こくって、ごめんなさいが言えない子供のようですが、まさにそのようでした。ただ母に言わせると可愛かったようです。今もその面影が残っているように思われますが、皆様いかがでしょうか?ただ、すばしっこいのは小学校2年生までで、骨折とともにあばら骨がみえなくなり、今のメタボ体型になりはじめました。ですからこの体を作るのには、43年の血と汗がかかっているのです。簡単には痩せられません。もったいないです。それに山田晴史という名前は何となくぽっちゃりしたかわいいイメージが備わっていると思います。ですよね。
 また、横須賀生まれと言うことで、折角ですので私の親戚には、すでに廃業し他界していますが、本町にあった川島洋服店、やはり他界しておりますが、今でも営業している日の出ブロック商会がいます。日の出ブロック商会の現社長は従兄弟です。大先輩の皆様にはお世話になっていることと思います。これからも我が一族を宜しくお願いいたします。
 さて仕事の方ですが、59年から馬淵建設で現場監督の勉強をし、昼は現場の片付け夜は墨出し、もっと夜は施工図と、まあよく頑張りました。渡辺ガバナー・ノミニーのビルも少しだけやらせていただきました。当時の事は、聞いて頂ければわかると思うのですが、代わりに言わせていただくと、きっと今とは違って好青年だったと言われるでしょう。初めての作業所長は26歳の時。たまたま所長候補にあがった方が退社をしてしまい、あまっていた私が代わりをしました。まあ才能があったのか、仕事は完璧でしたし、事業主様にも気に入られ、内の娘の婿にという話は掃いて捨てるほどでした。しかし私には19才の時、図書館で知り合った今の女房がおりましたもので、今はありませんが、後ろ髪を引かれる思いを千切っては投げ、千切っては投げでした。おかげさまで、その残念な思いをしたおかげでしょうか、女の子と男の子を授かりました。21才早生まれの女の子と来年成人式を迎える男の子です。女の子は桃子といい小学校4年生の時からバレエを今でも続けています。来年就
職で静岡に行ってしまいますが仕方がないですね。静岡の第一テレビという会社で女子アナをやります。神奈川県では見られませんが、静岡に行った時は見てやって下さい。山田桃子です。とても可愛いですから。神奈川で観られるとしたらハプニング特番ですね。下の男は健太といい、私が工事じゃ使えないからと営業に廻された年に、年中さんでサッカーがやりたいと言いだし、高校3年まで続けておりました。今ではただのサッカーができるお兄さんですが・・・。年中から6年生までの8年間は、私も営業で土日祭日ほぼ休みの体制の中、カレンダーの青い日赤い日はグランドで一緒でした。サッカーは知らなかったですから、ただひたすら、話を聞け!挨拶しろ!砂をいじるな!トイレは行ったか!また明日な!と大きな声で激励をとばし、営業になって大きな声が出せない憂さをはらしていました。でも、近頃のお父さんはあまり子供を怒らないのか、それが良いというお母さんも少人数ですが応援してくれていました。
 横須賀ロータリークラブは、クラブ委員会活動計画書を熟読してみますと、発足当時から谷川武社長が17年間、馬淵勝先生が3年間、谷川直武社長及び会長が30年間、ちょっと間が空いて、松原取締役が6年間、小松取締役が8ヶ月、ついで私になり1年と2ヶ月目を迎えました。役職無しの私が仲間に入れさせて頂き、さあ準備はできました。皆様方のお力であとは役職をお与え下さい。私の将来は皆様にかかっております。当社の者と話す機会がありましたら山田に清き一票をお願いいたします。それが唯一長く横須賀ロータリークラブに在籍できる道だと確信しております。宜しくお願いいたします。
 さて、現在の110名のメンバーの中で年齢を一覧表にしてみました。私51才は、まだまだ若い方から数えた方が早い位地におります。とはいえいくら先輩が多いといっても馬淵武社長や馬淵勝先生のエピソードを話してもわかる方の方が少ないと思いますし、だいたい私がわかりません。もしご存じの先輩がいらっしゃいましたら、テーブルが一緒になったときにでも、お話をお聞かせいただければ幸いです。宜しくお願いいたします。入社して谷川直武社長時代に私は5年生ぐらいからでしたか、諸先輩方に連れられ、月に一度社長を迎えて焼き鳥屋でご一緒させてもらっていました。年に一度くらいはゴルフもご一緒しました。とても優しいお方でした。平成16年の偲ぶ会には、横須賀ロータリーの方々もたくさん参加していただけたと思います。改めてありがとうございます。会長になられてからもゴルフに行ってクラブハウスで会長・会長と私が呼ぶと、手招きされて山田くん、君が会長と呼ぶと誤解されるからやめてね。と、優しく言われておりました。あれは、何だったのでしょう??
 また、仕事の話しに戻りますが、38才で営業になり、横浜支店での地域密着営業をかわきりに、補助金事業の営業と短い間に部署を転々としました。使えないから転々としたのか、私を必要としている上司が引き抜いたのか、今は皆さん退社されているのでわかりません。私が思うに後者だと思っておりますが、真実はどうでしょうか。約6年前、横須賀本店に配属になり、横須賀地域密着営業に努めて参りました。しかし、横須賀はみなさん設備投資が終わり、現在安定しちゃってまして、当社がお手伝いする物件が少なく、そろそろ横浜に机を移せばどうだとも言われております。ただ私といたしましては、折角の発祥の地である横須賀でもう一度、昔のように馬淵建設、現在Mzecと看板は替えておりますが、それで横須賀市内をいっぱいにしたいと思っています。チャンスはあると思います。横須賀は海抜も低いですし。期待しているわけではありませんが、でも少しは考えます。不謹慎ですみません。たくさんの仕事がなくても私は横須賀の馬淵建設を守りたいと思っております。ここでまた、皆様の清き一票が必要になります。山田を末永くご愛顧ください。
 とりとめのない話をさせていただきましたが、横須賀ロータリークラブの一員となり、ロータリアンということで、仕事相手との話が弾むチャンスも頂きました。先日は横浜の金沢ロータリークラブの米沢さんと話ができ、米沢さんは19年間例会を休んでないという事をお聞きしました。6月の最終例会では上林会員・萩生田会員と渡辺磨会員が記念品をもらっていました。私も頑張って今年度は記念品を頂こうと思っております。丑の会、美食倶楽部、ゴルフ同好会、スポーツ同好会と今は声をかけて頂き嬉しく思っております。私の知らない会合がまだあるのでしょうか?とにかく「奉仕を通じて平和を」です。これからも宜しくお願いいたします。
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