活動報告

<卓話>マホロバ・ホンダカヌースクール

<卓話>マホロバ・ホンダカヌースクール
                                  代 表  本 田 大三郎 様
『本田大三郎氏プロフィール』
20121701.jpg1935年熊本県生まれ。子供の頃からスポーツ万能で、八代高校に進みハンドボール部主将を務める。同校卒業後、自衛隊に入隊し、自衛隊体育学校第一教育課にてハンドボールやラグビーの指導にあたる。その後、カヌー競技に取り組み、日本代表チーム主将として東京オリンピックの「1000mカナディアンペア」をはじめ、世界選手権などに出場。現役引退後は、コーチとしてミュンヘンオリンピックの選手団に同行した。40歳の頃、横浜市消防局からヘッドハンティングされ、体育訓練担当課長に就任。消防の作業をスポーツで体系化するなど、職員の体力強化に尽力した。現在は、スポーツ教室「マホロバ・ホンダカヌースクール」(神奈川県三浦市)の代表として、青少年向けに各種スポーツを指導している。

皆さんこんにちは、只今ご紹介いただきました本田です。まず昨年の国体のカヌー競技でお世話になりました岩国の方がゲストでいらしていますので、初めにお礼を申し上げます。私は今、三浦市で「マホロバ・ホンダカヌースクール」の代表を務めておりますが、今度、屋久島にもカヌースクールの分校が出来ました。種子島が目の前ですので、ロケットの打ち上げのあるときにでも是非いらして下さい。
 九州の山脈のほぼ中央に球磨川という48の瀬がある非常に流れの速い川が流れております。その白岳のふもとで私は生まれました。2月といえども雪の降る場所で、ブリをもらった母がブリ大根を作ろうと聖護院大根を取りに行った際に産気づいてしまって生まれたのが私でした。球磨川の水で産湯をとったのが私で、今日が77回目の誕生日です。私の母は13回出産し、私は9番目に生まれました。私の生まれた反対岸で川上哲治が生まれました。昨年度プロ野球で優勝した秋山監督も同郷です。その生まれ育った地の子供の頃のけんか友達が、ずっと応援してくれているおかげで数々のオリンピック出場につながってきたと思います。
私が東京、ミュンヘンオリンピック、長男がロサンゼルス、ソウル、バルセロナオリンピック、兄の孫の本田圭佑が北京オリンピック、そのあいだに教え子の2人もオリンピックに参加し、合計で9回のオリンピックに参加しました。オリンピックは異質な世界です。スポーツで強くなるにはどうしたらいいかを今日はお話できればと思います。私がお伝えしたいのは、まず好きであること。競技そのものだけでなく、道具や他の選手も好きになること。好きになって20年もやれば、オリンピックに出られますが、金メダルは難しい。
次に基本が大事だと思います。基本は何かというと「骨」です。今度「日本人は骨で戦え」という本を出しますのでご覧になって下さい。筋肉やテクニックをいくら付けても基本の骨がしっかりしていないと、オリンピックでは勝てないだろうと思います。型破りという言葉がありますが、型すなわち基本が出来て初めてそれを破ることが出来きる。イチローは型破りな人間ですが、それはしっかりとした型を身に付けたから型を破れたのです。逆に型が身につかなかったものは形無しです。素晴らしいコーチは型を守る人をしっかり育て、どんなときにも対応できる基本型をもつ選手を育てることが出来るのが素晴らしいコーチといえます。
余談ですが、由紀さおりは型破りです、日本語でも中国語でもフランス語でもない「ルルル」だけでヒット曲を生んだのはまさに型破りの典型ではなかろうかと思います。これからはバーチャルなコーチ、すなわち一般大衆から良い知恵を集め、コーチングを受ける。そんな時代がやってくるだろうと思っています。話を元に戻しますと、長男が3回オリンピックに出たのは、実は私が小学校5年生のときに始まっています。ミッドウェー海戦で活躍した山口多門という最高司令官がいましたが、小学校の頃の遊びが戦争ごっこで、私が多門にあこがれて、長男に名づけることに決めていました。子供の名前は生まれる前から名づけてあげたほうが良いと思います。生まれてくるときに名前を持って生まれてくる、そのことが自信になり、3度のオリンピック出場につながったといえます。山口多門さんのお孫さんが相模原にいらっしゃいます。そんな名前の経緯から長男と山口多門のお孫さんとが60数年の時を越えて接点ができ、お付き合いさせていただいています。最後に円谷幸吉のお話をさせていただきます。円谷幸吉は私達が起床する前に練習していたのです。いつも私達が起きる前に靴が朝露で濡れていました。残念な最後でしたが、彼の遺志がその後のオリンピック出場につながってきたのだと思います。昨年の出来事で東京オリンピックのボクシング金メダリストの桜井さんが亡くなりました。私は77歳ですが100まであと23年生きたいと思います。これからもオリンピックは「平和の祭典」であり続けてほしいと願いつつ、私の話を終わります。

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