活動報告
<新会員卓話 2>信木啓輔会員
観音崎京急ホテルの信木です。昨年の12月から入会させていただきましてから約半年となり、親睦・会報委員会また、テーブルミーティング等で皆様にお世話になっております。大変ありがとうございます。
改めて自己紹介をさせていただきますが、信木啓輔といいます。皆さんあまりこの苗字は聞いたことがないと思いますが、親の出身地,広島と岡山に数は少ないですが、ある苗字のようです。私も一度だけ本籍のあるところへ行ったことがありますが,広島駅から車で高速も使って約一時間、とても山深いいかにも田舎的なところです。親戚以外で聞いたことがあるのは、最近ビルの免震ゴム偽装で有名になった会社の会長さんくらいです。
私はというと、昭和36年8月、千葉県船橋市で生まれました。皆さんの知っている船橋というと、昔だと船橋ヘルスセンターと中山競馬場くらいでしょうか。子供の頃は、ヘルスセンターは高くて1回しか連れて行ってはくれませんでしたが、競馬は父と小学校に上がる前から自転車でよく行きました。今でこそ市内に駅の数が9路線37駅もある東京に近いベットタウンですが、昔は畑や田んぼの多いのどかなところでした。
最近だと、ふなっしーと東京ディズニーランドに次ぐ人気になっている船橋アンデルセン公園が結構有名になっています。実家周辺は梨園ばかりでしたが意外なところで有名になりました。アンデルセン公園は実家から車で10分位のところにあり、自分の子供が小さかった頃行きましたが、入園料がとても安い割には広くて自然の中で遊べるところが人気だと思います。
私は子供の頃、父の手ほどきで野球が好きになり本格的には中学校に入ってからはじめました。中学時代は毎年1年生が100人位入るんですが、2年生の時は県で優勝したくらいのレベルでしたから厳しい上下関係と、休みの日もほとんどなく3年生になると10人位に減りました。生意気だったこともあり、先輩にはよく目を付けられてケツバットや競争で走らされました。おかげで足は随分と速くなりました。あの頃は自分でも本気でプロ野球の選手になりたいと思っていて、高校でも野球を続けて甲子園に行けるところに進もうと、誘われていたある東京の私立高校に行くつもりで1月の末まで毎日バット振っていましたが、その学校には親の強硬な反対で急遽断り、別の高校へ行くことになりました。親としては体を壊した場合のことも考えてのことだと思い、今では感謝していますが、結局、やはり野球は続けました。3年の夏が終わり、できれば硬式で続けたい気持ちもあり某大学のセレクションも受けたこともありますが、3年生の時には既に肩を壊していたこともあって、その後の連絡はなく、ここで硬式野球は断念しました。
現在、私は観音崎京急ホテルに出向で働いておりますが、元々は京浜急行電鉄に電車運転士要員で入りました。品川駅で2年、電車車掌を2年経験し、昭和60年に電車の運転士になりました。電車の運転士というのは正式名称を甲種電気車運転免許といい、大まかに言うと国家資格なので一般のJR・私鉄の専用軌道に敷かれた線路を走る電車を運転できる免許です。京急の場合、駅、車掌を経験して社内の登用試験を受けます。これに合格しますと教習所という国交省認可の自社の養成所があり、机上教習約4か月と営業車での技能教習を指導運転士(師匠と呼ぶ)とマンツーマンで約5か月行います。ここでは中小の鉄道会社の運転士要請も受け入れており、湘南モノレールや沖縄都市モノレールなども養成したようです。当社の場合、古い時代の師弟関係的な指導方法をとっており、今の時代ならパワハラで訴えられるくらい鉄拳と見えないところで足が出る厳しい指導の師匠も中にはいましたが、私はその辺は慣れていますから何とか乗り切りました。今はあらゆる面で自動化が進み、ヒューマンエラーを無くすための保安機器が設置されてきていますが、あの時代の上司・先輩たちからは「機械は使うものであって使われるものではない」と教えられてきました。運転士を約6年経験したころ、社に異動になり広報の仕事をしました。京急では現場からでもグループ会社や畑違いのところへの異動も多く変な部分はありますが、その点ではいろんな知識や人を知ることができ感謝しています。その後、労働組合専従もやりましたが、ここでも組織の中で多くの知り合いが社内外にできたのと、いろいろなところへ行きましたので、その土地の人と現状を見ることができました。
次の職場である千葉のゴルフ場は、全国で第2位の密集地で、市原京急のある市原市だけでも32コースあります。昔と違いキャンセル料は取れませんし、ネット予約で複数予約しておいて直近で料金の安い方へ流れてしまうなど、とても厳しい競争社会でした。
ゴルフ場勤務が3年を経過し、次の異動先が今いる観音崎京急ホテルです。また畑違いの職場となりました。サービス業には違いはないのですが、いかにしてお客様に来ていただくかということでは同じで、とても厳しい世界だと感じています。集客面で考えなければいけないことは山ほどありますが、あの景色を見に来ていただけるよう従業員と一緒に頑張っていきたいと思っています。
今日の日経新聞にも出ておりましたが、 親会社である京浜急行電鉄は、今年3月期の連結最終損益で会社設立以来、初の赤字となりました。理由として、三浦市の三戸小網代地区の大規模宅地開発事業と久里浜線延伸事業を凍結し、棚卸資産評価損および減損損失を計上しました。本来は鉄道をはじめ各事業とも好調
で過去最高水準の営業利益を達成する見込みでしたが、三浦の現状と当社グループの未来を見据えた決断であり、沿線および株主様には京急は危ないんじゃないかとご心配をおかけしましたが、2016年度には大幅に収支改善し、また横須賀三浦地区は京急グループにとって重要な事業基盤であることに変わりはないということを、私ではなく皆様ご存知の横須賀出身の電鉄 原田社長が申しておりました。
なお、他にもお台場のホテルグランパシフィックLE DAIBAを売却し、本社も現在の泉岳寺から横浜MM21地区へ2019年に移転することを発表いたしました。
京急グループでは今年、第18次総合経営計画という中長期計画を立ておりまして、今年度がその1年目となります。事業の「選択と集中」で経営資源の集約をすすめ、より筋肉質な事業構造へ改革をすすめていく計画です。大変先の長い話ではありますが、今私のいる観音崎京急ホテルでも三浦半島のシンボル的なリゾートホテルになれるよう、多くの皆様にお越しいただけるホテルを目指していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。