活動報告

<卓話>横須賀軍人市長 奥宮衛とその時代

2013年1月18日 第3002回例会

<卓話>      横須賀軍人市長 奥宮衛とその時代
                                      元読売新聞編集委員
                                      田 川 五 郎 様
【はじめに】
 只今 ご紹介を頂きました田川でございます。今日、このようなお席でお話をする機会を頂きましたことを誠にありがたく存じます。今回の私のお話は、昨年に出版し、お配りしました本の宣伝というか、この本を通して、奥宮衛という人物を是非皆さんに知って頂きたいと、そういう思いをお伝えするものです。
 私は、この奥宮衛という市長が横須賀に居たことを全く知りませんでした。2年程前に明治の歴史を調べている際に、奥宮衛の従兄弟にあたる奥宮健之(けんし)という自由民権運動で活躍した人物に注目すると、親族に横須賀市長を務めたものがいることが解り、更に知りたいと市史編纂室で調べたところ、ご存知の方は少ないと思いますが、確かに4代目の横須賀市長として活躍されていたのです。

【奥宮衛の三段跳び人生】
2013118.jpg 簡単にその略歴をご紹介しますと、彼は高知県の出身で、高知の人が横須賀市長にというのは異に感じられますが、これは海軍にいた為で、地元の学校から当時江田島ではなく東京築地にあった海軍兵学校に進んだ、昭和10年入校の10期生にあたります。
 ちなみに、高知出身の海軍軍人は多く、一般に海軍軍人と言えば鹿児島「薩摩の海軍」とも言われますが、これに対抗する一派が「土佐の海軍」でありました。日露戦争の際の参謀長島村速見などがそうで、明治の時代で中将以上になった人が17人もいたそうで、土佐で元気な人は皆で海軍に入ったのです。
 彼はその後日清戦争に参加し、巡洋艦「高雄」に乗り込み黄海海戦に出撃しています。更にそのあと日露戦争にも参加し、巡洋艦「松島」の艦長も務めて活躍をしています。ご存知の「坂の上の雲」の中にも登場します。バルチック艦隊が迫る中で動揺する部下たちを甲板に集めて薩摩琵琶を一曲弾く、そして皆の心が静まり勝負に出るという場面です。
 日本海海戦での功績が認められ、戦争が終わると「三笠」の艦長として少将に昇進し、「土佐の海軍」の中枢を成す人物と期待を寄せられ、末は中将、大将かと言われていたそうです。しかし、彼は突然失脚してしまいます。何故か、それが先ほどお話した彼の従兄弟にあたる奥宮健之の存在となります。
 奥宮健之は大変優秀な男でありましたが、一方では今で言う過激派のような乱暴な面もありまして、自由民権運動に走る中で、東京の鉄道馬車の普及に伴い職を失っていく車夫を集めて「日本車会党」なるもの作り大暴れし、そのあまりの振舞いに政府が東京での活動まかりならぬとして追放処分とし、全国を渡り歩く生活を続ける中で、ついに資金尽き強盗を働き、警察官を乱闘の末に死なせ、強盗罪として北海道の監獄に放り込まれる事となりました。
そして、彼がその後に東京に戻っていた際に、ご存知の明治43年「大逆事件」、幸徳秋水を始め当時の社会主義者が天皇陛下を暗殺しようと企てた事件ですが、同じ高知出身が故に出入りしていた奥宮健之がこの事件に巻き込まれ、12人の死刑囚の一人となってしまいました。
当時の事で、従兄弟とはいえ逆臣一族は許せずと奥宮衛は海軍を追放されます。
それが大正元年の事、末は大将かと言われた人があまりに不憫と、周りの人が横須賀の市長にでないかと、こういう運びになったのです。
当時、市長の選出は、直接選挙ではなく市会議員が3人の候補者を選び、その候補者の名簿を内務大臣に提出しお諮りし、内務大臣が天皇陛下のお許しを得て決めるというもので、当時の横須賀市政が混乱し足の引っ張り合いともとれる状況の中で、高知出身の奥宮衛がこの場はいいのではと筆頭に名前が載り、内務大臣がこれを認めたという経緯もあります。
これが大正5年、以来彼は大正13年まで市長を務めていますが、歴代23人の市長の中で7年以上勤めたのは彼だけかと思います。
この間には関東大震災もあり、この対応に追われた彼はくたくたとなり、翌年には辞めることとなりましたが、この間の振舞いも立派だと皆がほっておかず、逗子開成中学の校長に就くことになりました。
彼は、海軍から市長に、そして中学の校長へと三段跳びの面白い人生を送った人だと私は思ったわけですが、それだけでなく更に私が彼に興味を抱いたのは、彼が海軍時代38歳の海軍少佐の時に、米国まで軍艦をとりに行っており、横須賀市役所に保存されているこの記録が大変興味があるものなのです。
奥宮衛は万延元年生まれの幕末の人であり、その日誌たる記録は漢文口調の難しい文章ではありますが、読み込んでみると非常に面白く、これをこのまま眠らせておく手はなかろうと筆を執ったのがこの本です。

【すさまじい軍備拡張の時代】
皆さん、軍艦を取りに行くというと奇異に感じられるでしょうが、当時の日本の軍艦はほとんどが外国製であり、日清戦争の際には日本には戦艦はなく、巡洋艦での戦いでした。
そして、いよいよ次はロシアとの戦いとなった日本は、やはり戦艦がなければ勝てないと、明治30年以降強力に軍備拡張の大増税を進めました。
今の北朝鮮顔負けで、国家予算の半分以上を軍事費に費やす時代であり、その時の税金は大変で、営業税だ、所得税だ、たばこが専売性になったのもあの時ですが、当時の国民はロシアとの戦争で負けて国土を失う事に比べれば増税は我慢しようと、そう考えていたのです。
その時の船隊構想が「66艦隊」というもので、戦艦6隻、巡洋艦6隻を作り、これを主力としてロシアと戦おうと考え、三笠をはじめ戦艦6隻をイギリスに発注しました。
次に巡洋艦をとなった際、ロシアとの戦いを想定してはアメリカの支援も必要で、イギリスばかりではとの意見から、巡洋艦6隻の内2隻がアメリカに発注され、造船ではイギリスに劣る位置にあったアメリカは大変喜んだといいます。
通常は、船は作った国が届けるものですが、日本海軍は、早く乗組員に操艦を覚えさせたい、そしてこの機に海外の事情を体感させたいと考え、取りに行く事が通例となり、優秀な軍人が送り込まれ、奥宮さんもこれに選ばれたということでした。

【軍艦を引取りに海外へ】
新車を買った場合でも戸惑います、まして大きな軍艦を初めて運ぶという事は容易な事ではありません。
実際に、明治19年に日本は「畝傍」(うねび)という巡洋艦をフランスに発注しインド洋を越えて運ぶ事となったのですが、漸くインド洋を越え、シンガポールから日本に向かう中で突然行方不明になりました。
4,000tを超える船なのですが、軍艦は大砲を積んでおり、「畝傍」のように12門も積むと極めて不安定な状況であり、おそらく時化の中で転覆沈没したものと思われ、海軍が必死に探しましたが、約100人の乗組員ともども未だに手掛かりすらありません。
また、この船に掛かっていた保険で追加発注した「千島」についても、長崎についた後、瀬戸内海を運行中にアメリカ貨物船と衝突して沈没しています。おそらく不慣れな、操艦が原因と思います。
1隻が当時で150~200万円ですから大事で、「千島」の運行責任者が責任を感じ割腹している程です。
ですから、これはとても責任が重く、危険な仕事であったのです。
お話をもう1つ、先程66艦隊でお話しした巡洋艦6隻のうち「春日」と「日進」についてです。この2隻はそもそもアルゼンチンがチリと戦争する事となりイタリアに発注したのですが、建造中に終結してしまいキャンセルとなり、聞きつけたイギリスが軍備拡張を急ぐ日本にどうかと伝えてきたものです。
日本は通常2年以上かかる軍艦の配備がすぐにできると喜びました。ところが、更にこれを聞きつけたロシアが負けてたまるかと手を上げて競争となりました。
結果、日本が手に入れることとなったのですが、ロシアとの開戦を控えるこの時にこの船をどうやってロシア軍艦がうようよいる地中海を抜けてもってくるか。
これをイギリスに頼んだ訳ですか、イギリスとしても案内がいると、そこで乗り込んだのが、たまたま当時ドイツにいた鈴木貫太郎で、通常2ヶ月はかかるところを36日でこの横須賀まで持ってきた。
そして、この2隻が手に入ったからこそ日本はロシアとの開戦に踏み切り勝利を収めたのです。

【結びに】
この2隻は立派な船で、日本海海戦でも活躍した鈴木貫太郎は「春日」に乗り副官として活躍するのですが、もう一隻「日進」に乗り込んだのが、あの山本五十六です。
戦争を始めることとなった山本五十六を乗せた「日進」、戦争を終息させることとなる鈴木貫太郎を乗せた「春日」、この運命を背負ったアルゼンチンから買った2隻の船をはじめ、こういった背景を踏まえてお読み頂くことで、この奥宮衛の航海記は、より味わい深く、非常に面白いものとなります。
私が今ここでこれ以上のお話をしますより、是非一度お読みいただければ幸いと思う次第であります。
本日は誠にありがとうございました。
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