<卓話> 「 私の北極物語 」
和 泉 雅 子 様
皆さまこんにちは、和泉でございます。本日はウチの田中マネージャーと飯塚会長がご親戚という事で、お陰様で横須賀ロータリークラブとのご縁が出来ました。本当にありがとうございます。もうちょっと色気のある女優だと良かったんですけど、世界一色気のない女優が参りましてご勘弁いただきたいと思います。
どうして女優になったのかとよく言われるんですけども、小学校の時に勉強できなかったんです。私達の時代は5段階で1から5まであり、5が一番良かったのですが、その1と2ばっかりでした。通信簿が1と2ばっかりでイチニ、イチ二って言うんで、行進曲のイズミってあだ名がつきました。それでもう、何とか学校サボりたいなと思ったんですけど、昔ですから、お医者さんが来て注射うっちゃうぞとか、お巡りさんが来るぞとか、校長先生に怒られるぞとか言って休めないんです。ある日、広告見ましたら、児童劇団の子役募集となっていたんです。これだと思ったんですね。テレビとか映画とか舞台に出れば学校休めると思ったんです。それで父親に受けたいんだけどって言ったら、父親は承知の助でコイツ休みたいって言っているのが丸見えなんです。でも試験受けさせてくれたんです。その気は無いもんですから、試験場に行って試験官の先生が並んでいる前で今でいうダンス、昔ですからお遊戯ですね。皆が左回りするときに右に回っちゃったり、全然できないんですよ。肝心な演技の方ですが、「泣いてごらんなさい雅子ちゃん」って言われたんですが、私銀座っ子で江戸弁なもんですから、「悲しくもないのに泣けねーよ」って言っちゃったんです。それでもって先生方も困ったもんだなってことで今度は「笑ってごらん」って言ったんです。他の子は上手にできるんですが、私の番がきて「おかしくもねーのに笑えねーよ」って言っちゃって、怒ったかなあって思ったら、顔がキレイなんで受かっちゃったんですの。それでしばらく劇団若草で子役をやっていたんです。当時、おトラさんっていう柳家金語楼先生のテレビドラマが流行っていまして、もう憧れちゃって、喜劇女優になるんだって思いました。そして劇団を辞めて、柳家金語楼先生の最後の弟子になったんです。ところが、顔が邪魔したんですの。あまりの美しさに君は喜劇は無理だっていうんです。確かに村長の娘、大店の御嬢様、そんな役しか来ないんです。喜劇はやらせてもらえなかったんですね。あの時、先生はジェスチャーという番組をNHKでやられておりまして、水の江滝子さんと柳家金語楼先生がキャプテン同士で、私も弟子ですから、中学校が終わると公会堂に駆けつけて見てたわけです。そこでターキーさんが私の美しさに目を付けたんですの。「お兄様ちょっとこの子を日活に貸してちょうだい」って言うので、日活に入社するのかと思って喜んだんです。ところがまだ13歳ですからね、日活の専務や常務にそんな子供はいらないって言われたんです。ところがターキーさんはどうしても私を日活映画に出したくて、会社にナイショで映画に出たんです。それで、試写会を見て専務や常務が、「あの子は誰だ!すぐに契約しろ」って言うんでね、まあ、お陰様で日活のスターになれたんですの。ちなみに昭和36年入社でございまして、同期は4人おりました。1月に松原智恵子さん、2月に高橋英樹さん、4月に中尾彬さんが入社されまして、私が7月で、華の36年組って言われたんですね。まあみんな色気のない人ばっかりでしたが。日活の話はまた後程させていただきます。そんなことで、日活でとても楽しい青春時代を過ごしたんですが、なぜか日活が火だるまになっちゃいましてポルノに変わるって言うんですね。最後に見渡してみると俳優さんはみんなプロダクションに移られて舞台、テレビに活躍の場を移していたんです。気が付いたら私と二谷英明さんだけが残っちゃったんですね。日活の方もこの二人にポルノに出てもらうのは困るからというので辞めることになり、二谷さんに2年ぐらいお世話になりまして、それからプロダクションに移ったんです。舞台、テレビと理想的に学校が休める口実がいっぱい出来て、お陰様で高校も出席日数が足りずに卒業できず、高校5年生までやりまして、無事卒業となり無罪放免になった訳でござます。そんなことをしているうちに、健康マラソン大会とか、館山とか白山などの山歩きが好きになっていきました。休みになるとザックを背負ってスーッといなくなるもんですから、女優の事務所としては、「どこに行くんだか連絡ぐらいしてよ」って言われたんですけど、「そんな山の頂上に電話は無い」って言ったんです。携帯電話がない時代ですから、イイですね、電話がないっていうのは。そして、ある時、仕事で南極大陸に行ってくださいって言われたんです。「えーっ」て言ったんです。そして出発はいつですかって聞いたら、3日後ですって言うんですね。でも、まあいいか暮れ正月お休みだし、お芝居の方と違って、映画人は暮れ正月は暇なんです。何もないんです。なのでペンギン大好きだし南極に行ってみるかなと南極に行きました。そこで景色見て驚いたんです。ホントにどこまでも突き当りのない空と海ばかりで、ホントに雄大な景色でございました。世界にはこんな景色もあったんだなあって感動してハマってしまったんですね。どうも私たち日本人の場合、ビルディングが見えたり、電車が走っていたり、山が見えていたりで突き当りがあって安心感があったんですけど、その突き当りがないんですね。それでこんな所を探検できたらいいのになあってフッと思ったんです。それで、南極は景色見ちゃいましたので、そこはちょっと洒落の強い柳家金語楼の弟子でございますので、じゃ今度は反対側の北極のしかも地球儀の鋲がとまっている北極点の景色がみたいなという不純な動機でウチの遠征隊は立ち上がった訳です。ご存知の通り、私は2度も北極点に挑戦いたしました。一度目は1985年でございます。あの年は全部で5か国挑戦したんですが、大変に氷の状態と天候が悪くて、私どもを含めて5か国とも到達できませんでした。その辞める瞬間っていうのが難しいんですね。もう行けないことは分かっているんですけど、あんなに予算掛けてきたのに行かれないとはとショックを受けました。もう自殺しちゃおうかな、生きて帰るの恥ずかしいなとか色々な事を思ってテントの中でわんわん泣いていたんです。一日半泣いて、あれ、ちょっと待ってと思ったんです。こんな氷しかない所で死んじゃっていったいどうするのって思ったんです。生きてさえいれば、命さえあれば、北極点なんて何度でも挑戦できるんです。北極点は一生涯地球のてっぺんからは逃げないんですね。でも死んじまったらもう二度と挑戦できません。帰国して両親にも会えません。お友達とお茶したり、大好きな一杯もできませんでしょ。そんな楽しいことできない人生なんてつまんないな。死んじゃったらバカみたいだなってフッと思った瞬間に一回目の遠征を断念し、日本へ帰ってまいりました。ただ、私はくどい性格なんです。あきらめきれないんです。もう行きたい行きたい行きたいって頭がいっぱいになっちゃいまして、帰って来たのはいいんですが、もう夢中で次の準備を始めちゃったんです。約4年かかったんですが、1989年再び北極点を目指しました。この年も氷の状態が悪くて、どうかなって思ったんですけど、運良くお陰様で、5月10日午前6時30分に北緯90度、つまり地球のてっぺん北極点に到達できたんです。到達できたといいましても、帰国してからもよく得な事でもあったのとか、いいことでもあったのって聞かれたんですが、なんも無いんですよ。1億円以上のお金を失ったんですから。それは命を守るお金なんです。全員を自宅まで安全に戻すというお金だったんですね。もう無一文でお金は無いんですが、北極点という大自然から私は素晴らしいことを教えてもらいました。それはこの世の中にお金では買えないものもあるっていうことを自然から教えてもらいました。あっ、お金は大事なんですのよ、お金は。だって一所懸命働いてお金がなければ生活できませんよね。でもそれだけなのかなってフッと思ったんです。決してそうじゃないと思ったんですね。そしてお金で買えないものには何があるかなと考えたんですが、『命』はいかがでしょうか。これは駅前の商店街でも販売しておりません。両親から頂戴した命でございます。人様によって考えはそれぞれですが、私自身はその日まで、お迎えが来る日まで、まあ丈夫ですから当分ないと思いますが、命だけは大事にしようと考えています。それから『心』はいかがですか。やさしい心とか、思いやりとか、親切、友情もお金では買えません。お友達になってとお金払ってなりませんよね。友情は長い年月かけて、心と心が通じ合って創られるものですよね。あと両親もそうですよね。お父さんやお母さんも商店では売っておりません。私を産んでくれた素晴らしい親でございます。今日こうやって活躍できるのも両親の徳をもらって産まれて来たからなんです。私が長女で全部徳をもって産まれてきたもんですから、弟は気の毒に徳がないんですの。ですから毎日神様にどうぞ弟に徳がありますようにと拝んでいる次第なんです。ホントにかわいがってもらって親ってありがたいなと沢山もらいました。あと『環境』はいかがでしょう。失うのは早いような気がします。でも回復するのには大変な時間がかかる。まず、ごみの分別です。汚さないこと。電気のスイッチなど気を付ける事は山ほどあるんです。そういうお金を払わなくても自分でできる環境への協力の仕方ってあるのですから、それは私が言ったんじゃないんです、学者さんが言ったんです。私は役者ですから。確かに誰かがやるからいいだろうではなくて、私自身やれる範囲で一所懸命小さなゴミの分別からやっております。皆様方も当然やっていらっしゃることと思います。どうぞ小さなことから、お金を払わなくても出来る環境からやっていただけたら嬉しいです。そんな感じで色々な事を教えてもらいました。北極点、北極点とさんざん言ってきましたが、私は周りの人間から、それこそ甥や姪からも北極バカって言われたんですの。でも今私から北極という文字をもし奪われてしまったら、この二十数年、一所懸命に北極と取り組んで参りましたので、それが何にも無くなってしまうんです。ですから今後は、何か北極について子供たちに役立つようにやっていきたいと思っているんです。以前、熊本の女子高生のお嬢ちゃんたち10名をカナダ北極のレゾリュートというところに招待いたしましていろんな体験をしてもらった事があったんです。もちろん成田から成田まで私が負担させていただいて、参加していただいたんです。もちろん彼女たちはごく普通の高校生なんです。普通に就職をして、普通に奥さんになって、お母さんになって、子供が4人もいるなんて元気なお母さんになっております。特別ではないんですが、北極に行って帰ってきてとてもハキハキするようになったと、ご家族も喜んでいらっしゃいました。大した役には立ちませんが、子供たちが成長する過程で何か北極で役に立ってもらえたのかなって嬉しくなったんです。現在は北海道にも家がございます。時々行くんですけども、クリスマスにはクリスマスレクチャー、ケーキを食べるのもいいのですが、お話もしようよという事で、町の人を博物館に招待して、毎年色々なお話をさせていただいているんです。これもボランティアでございます。あとは標津というところの小学校4年生から6年生までの子供たちを、私が持っている農耕馬に馬そりを引かせて、子供たちを乗せて北極の授業をやって、凧作りなんかをするんです。意外に子供たちというのは、親が全部仕切って食べさせてくれるので、子供たちだけでジンギスカンを食べたことがないんです。いつも4人一組のグループでジンギスカンを食べさせるのですが、ちゃんと一人鍋奉行がいるんです。良く聞いていると、それぞれのウチの作り方を主張しているんです。子供はよく両親のことを見ているなと勉強になります。そして、最後に一番大嫌いな作文を書かないと帰さないというボランティア活動になりますが、"寒いのへっちゃら隊"という名前を付けて 13年ほど続けております。こういうボランティア精神というのも北極の自然から教えてもらった事です。実はもう一人私にボランティア精神を教えてくれた人がいるんです。それは吉永小百合さんです。小百合ちゃんは私と違って楚々として、お勉強が大好きで、頭が良くて、素晴らしいんです。何気なく着ているとっくりとカーディガンが似合うそんな素敵な女性なんです。私が15歳、小百合ちゃんが17歳くらいの時に「マー坊、ウチに寄って」と言われ、帰りに小百合ちゃんの家に寄ったんです。何するのかなと思ったら、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を出してきて、「これを二人で読んでテープに吹き込もう」って言うんです。言われるがままにジョバンニ、カンパネルラなんて読んでいたんです。それで、テープに全部収めました。そして、どうするのか聞いたら、目の不自由な人は本が読めないからこのテープを図書館に寄付して、吉永小百合、和泉雅子とかそんなことは書かないで、耳で本を読んでもらうのよって教えてもらったんです。それまで私はボランティアという事を知らなかったので、ああ吉永小百合さんって偉い人だなあって思ったんですね。ホントにいい先輩もちました。それから高橋英樹さんは同期の桜ですが、あの方は千葉の人なんです。日活の新人の頃は、まだお互い中学生、高校生の時代でしたから、一緒に京王線で撮影所に通っていたんです。セットの隅で、「明日、高橋君は何のテスト?」「僕、国語」「私、英語」なんてそんなことやっていたこともあったんです。高橋君とのコンビは入社が一緒だったこともあり多かったのですが、ある時、「男の紋章」っていう時代劇のような役が決まったんです。どうして選ばれたのだろうかと後から理由を聞くと、高橋君も私も脚が短いという明快な答えでした。二人とも大変胴が長いんです。こんなに着物の似合う男優も女優もいないとのことので、日活の中から選ばれたんです。私が高橋君に付けたあだ名が"ダックスフンド"でございます。土管に手足ですね。あんまり高橋君も悔しかったのでしょう。私のことを"白色レグホン"ってよくケンカしました。若いころの思い出でございます。いまだに、高橋君が着物を着るとホントに似合いますよね。今現在、日本一タテと言うのでしょうか、チャンバラの上手な俳優さんで、その点は大変尊敬しております。小林旭さんって力持ちなのよ。ある会合をウチでやりまして、ちょっと食べるものもあったものですからナイフとかフォークが並べてあったんです。そこへ来た小林旭さんが、そのナイフとフォークを片っ端から曲げちゃったんです。後、どうすればいいのか、元に戻らないんです。もともと体育系で体操の上手な方だったようです。ですから日活の中でも吹き替えと言いまして、ちょっと離れたところでは、上手なアクションが
出来る方と入れ替わって、入れ替わった人がやるというふうになるんですが、旭さんは全部やるんです。真っすぐ立った壁に走ってきて、足で蹴って宙返りするなんてこともできるんです。大変な体育会系でした。そして対抗馬、裕ちゃん。先日、日活100周年という会があり、手形を採ったり、除幕式をしたんです。その時にスタッフに聞いた話なのですが、結構、小林旭派と石原裕次郎派と2派に分かれていたんですね。私たちは気づきませんでしたが、結構2人にはライバル心があったようです。でも、やっぱり裕ちゃんは裕ちゃんです。日活の良いところは、御大制度というのがあり、偉い人がいないんです。監督さんでも、スタッフさんでも、俳優さんでも誰も偉い人がいない、みんな仲良しです。ですから、大スターは沢山いるんですが、仰け反り返っている御大というのがいなかったので、ホントに日活で良かったなと思います。裕ちゃんは脚が長いんですよ。実際に見たことがある方は、おわかりでしょうが、胴が短くてホントに脚が長いんです。衣装と言うのはもちろん石原裕次郎さんのために作るのですが、着まわしと言って、その後、色々な俳優さんがまわして着るんです。裕ちゃんの真っ白いズボンを今度は高橋君が着ることになったことがあったんです。まあ胸まで行っちゃて長袴になってしまいましたね。いかに裕ちゃんの脚が長いかと言う事ですね。食堂の前に芝生があって、撮影の合間に色々な俳優さん皆が集まっているのですが、裕ちゃんだけが光輝いていましたね。やっぱり昭和の大スターだというのは頷けます。浜田光夫さんは1年先輩なんです。子役からやってましたので、大変に演技の上手な方で、監督さんにとっては浜田君は欠かせないんです。なぜかと言うと浜田君が出てくれると、絶対にその作品に失敗がないんです。完璧な職人のような手放せない存在で、ホントに良い人。現在は日活俳優クラブの会長も引き受けてくれてまして、一所懸命やってくれます。たまたま、私、山内賢さんとご縁がありまして"二人の銀座"が運良くヒットしたんです。浜やんが、やきまして、自分も映画の中で私とデュエットするって言うんです。浜やんはそんなに歌は上手くないんですよ。私は大オンチなんです。ですから賢ちゃんのように味はないけど楽器のようなキレイに歌える人と私のように音程は悪いんだけど味はあるというのが合体して二人の銀座が誕生したんです。だから、浜やんとやっても上手くいかないんです。でもやきもちで、映画の中で実現しました。松原千恵子は、吉永小百合と私の3人の中で、もっとも色気のある人です。メイキャップさん、結髪さんなんて呼んだんですが、口紅を直してあげたりするんですが、その唇を見ていると吸いつきたくなるんですって。私と小百合ちゃんは一回もそんなことを言われたことがないんです。あの人は天然ボケでして、どっかでちゃんと分かっている天然ボケなんです。面白いんです。それぞれ個性があって。私と小百合ちゃんとチーちゃんの3人娘がケンカしない訳があるんです。それはお互いに持っていないものを相手が全部持っているんです。ゆえに全然ぶつからないんです。お互いに尊敬し合っているんですね。青春時代を日活で、のびのびと楽しく過ごさせてもらってホントに良いスターの時代を送れたかなと思っています。それがずーっといつまでも繋がっているんですね。日活と言う素晴らしいところから育って、北極点とめぐり合いまして、振り返ってみたら私って良い人生かななんて思うんです。これも先祖のおかげ、両親の徳のおかげだとありがたく思っているんです。それから、普通遠征隊って色々もめたりするんですが、ウチの遠征隊は一つももめなかったんです。これが自慢なんです。マイナス40度の世界でつかみ合いの喧嘩、うっかりすれば鉄砲を使う大喧嘩をする。そんな中で、2度の遠征で一度も何もなかったんです。それには大きな訳がございますの。"それは私が美女だったからなんです"どうもありがとうございました。