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<卓話>「雑談」 

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                                     丸 山 晁 巨 会員
3092.jpg こんにちは。私の話は面白くない上に、入れ歯でお聞き苦しいと思いますので、適当に聞き流すなりお昼寝するなりして頂ければと思います。
私の前に話されたお三方がすべて尽くされましたので私の話す事がありませんが、肯へて話します。
髙地さんは昔からいつも沢山の引き出しを持っていて自由自在に取り出して古き良き時代から今に至るまで明快に話されました。上林さんはRCの本筋が如何にあるべきかを常にブレない発言をしてらしてポール・ハリスがシカゴを良くしようという話を取り上げられました。私には足りない部分があるような気がします。私はちょっと世界中のRCがシカゴを良くしようと努力しているように思われます。長澤さんはあらゆる場面で指導力を発揮されていまして会議所でもRCでも私は兄貴分としてその後についてきました。
さて、私のRC歴ですが、1977年4月22日、髙地さん森本さんの紹介で第1286回の例会で入会しましたから約1800回RCの飯を喰ってきた勘定になります。
翌週は4月29日、天皇誕生日で早速休会になりますので入会記念にオーストラリアでも旅行と思い、一週間の予定でのんびり一人旅に出かけました。そのときは弟の飯塚が空港まで送ってくれたのですが「兄貴、何があると困るだろうから余計に持って行った方が良いでしょう」と云って持ち金を渡してくれたのですが、正に何かがあって助かりました。
ご存じのようにオーストラリアはかつてイギリスの流刑地であったところで、イギリスの旅行者が空港で「犯罪歴は」と聞かれた時には「やっぱり」と云ったとか諸説話があります。
かつてはホワイト・オーストラリア政策で有色人種を移民させなかったのですが、ベトナム戦争でオーストラリアと韓国は一緒に戦った仲間意識で韓国人の入植を許可したとか云う話を聞いた事があります。また、こんなおもしろい話がありまして、日本のオーストリア大使館の門前にはオーストラリア大使館までの地図と住所が書いてあるそうです。いかに「オーストラリア」と「オーストリア」の間違いが多いかと言うことなんですね。
旅行の要件として外国に行ったら動物園と植物園(Zoo・Botanical garden)は逃すなと云われています。私が今までの中でよかったのはシンガポールの植物園でした。どこに行っても「動物園」「植物園」だけは外せないです。私の旅行予定は当時RCと深い関わりのあった旅行社の島田貫二君が作ってくれたもので、ロータリアンの紹介状等も作ってくれていました。ロータリアンを紹介してくれたのですが先ずキャンベラでした。オーストラリアはご存じのように広大ですから飛行機頼みで困ります。先ずキャンベラのロータリアンのところへ訪ねて行きましたが、なんとパストガバナーのマーブ・ジョンソンさんという方でした。その日の夜にはすぐにメークアップに連れて行かれましてショートスピーチをと言われました。私はRCに入会して二回目でしたから、自分が何地区かも知らない何も知らなかったのですがマーブさんがすべて調べてメモにして渡して頂いたのでどうやら切り抜ける事ができました。結局、二泊させて頂いて三ヶ所のメークアップをしました。ほとんどfeeは発生しませんでしたが、そのうちの一つのクラブで$5寄付したところ一ヶ月後に領収書が送られてきたのにはビックリしました。その間にはマーブさんの奥様がキャンベラの街を案内してくれたり食事に連れて行ってくれました。食事はどこでも「肉」でした。やはり牛肉でしたが、奥様はマトンを食すんです。奥様は小柄でしたが太っていて心臓が弱いという事でしたから、フーフー言いながら苦しそうに運転していたのでちょっと怖かったのを憶えています。
それからシドニーへ廻りました。当時はオーストラリアドルは高く$1が¥320位であったと記憶しています。偶々知り合った中年のタクシー運転手と気が合いましたが、オーストラリアイングリッシュを教わったり、ヨットやゴルフやらのプライベートクラブに何故か案内してもらって食事をして中々できない経験をした事でした。パブへも行きました。ご存じの方も多いと思いますが、ホワイトカラーとブルーカラーはガラスドア一枚で分かれていますが、私は勿論ブルーカラーの方へ行きました。ポーリッシュが呑んでいましたが英語のなまりが強くてわからなかったのですが、若い人達は入国後に英語教育を受けていたのでよくわかりました。
さて、帰りは明日と云う事で航空会社へ連絡したらコントロールタワーの職員がストライキで飛行機が飛ばない、そして当時の首相、フレイザーさん?がストライキに対しては強硬姿勢で解決が長引くと云う事でした。しばらくの間、足止めをくらい、帰国予定が伸びてしまいました。団体旅行でしたらツアー会社が暇つぶしの予定を立ててくれるんですが、個人旅行でしたので、出発間際に渡された飯塚のお金が役立ったわけです。ホテルに帰り、翌朝目覚めてシドニー港まで行くんですが、傍らに朝から様々な方向の観光バスがあり12~3台市内やら山やらあってオペラハウスやらブルーマウンテンやら沢山選択肢がありました。話はそれますが、市内観光の折に日本大使館の日の丸を見ると心強く感じました。他の国の人も自分の国の大使館の前を通ると拍手をしたりしていました。湾内クルージングの時、10才くらいの坊主が2人駆け回っていましたが一人が私のバッチを見るともう一人の方に「おい、ロータリアンがいるぞ!!」と云いますと「大丈夫だよ俺たち何も悪い事してないもん」と云ってました。少し嬉しくなりました。オーストラリアのロータリアンが子供たちの教育にも関わりを深く持っていることを知りました。
さて、入会当時の横須賀に戻ります。会長は小池光雄先生で当時、歯科医師会の会長さんでしたでしょうか、真面目で自分を律することに厳しい方だったと記憶しています。入会いたしますと最初に夫婦でロータリーについての教育を会長経験者の方から受けました。場所は「まどか」さんでした。菅沼ご夫妻も一緒でした。奥さんの協力がないと良きロータリアンになれないと云うことでしょうか。また、当時は若手の起用が早くSAA、副幹事、幹事、理事、委員長等は若い人がなっていて、長澤さん菅沼さん本間さん等は大変な忙しさでありました。夜間例会に秦野の鶴巻温泉に何度か行きました(ご存じの方もいらっしゃると思いますが、将棋の枡田、大山事件で有名な温泉です)。早めに行ってゆっくり温泉につかりそれから宴会ですが、そこにも一番テーブルがありました。さて、その一番テーブルの権威とはという意味です。これは偉い人達が座る場所は決まっていました。ところがあるとき、全体の席を変えてみようと云うことで席順を変えてみましたが、偉い方は脇目も触れず一番テーブルに座るので、全く意味がありませんでした。それ以降、席順には大変気を遣っているようです。今のテーブルでも正面に向かっている席が古い方、偉い方の様です。
それから先年、発展的解消に至りました。日米協会は初めロータリーと一緒でしたが、ロータリーでは手狭になった等、当時第八艦隊司令官、略して八艦といわれた小佐野皆吉さん(小佐野圭三会員のお父様)、井さん長浜さん達と話し合って設置されたようです、後に八艦のネクタイを作ってメンバーにくれました。柄が乙女柄だったのであまり外では使えないので、今でもしまってあります。余談になりますが、井さんはゲルベゾルテの空き箱をシガレットケースに使っていました。関東自動車の稲川さんは小型のコンサイスを手放しませんでした。入会してしばらくするとロータリーも偉い人だけだと肩が凝るということで、若いメンバー同士でもたまにはいいと云うことで昭和十年前後生まれの会員が集まりました。亡くなった岡本達淋さんや本間さんまた、当時の山一証券の支店長さん等、7~8名くらいから始まりました。後に数が増えまして熱海や箱根に出かけたりしました。それが後々発展してテーブルミーティングのような形になったでしょうか。
1983-84 八巻淑博さんが会長の時、副会長が齋藤光潔さん、私が幹事でした。昔から三役と共に過ごすと一種独特な関係になる様です。一部の方はご存じでしょうが齋藤さんは粋な方でしたから八巻さん軟
化計画等を楽しくやりました。当時の幹事は大変でした。事務局は無いも同然。仕事にはかまってられず、全て自分でやるわけです。それで一年の終わりには浜田さんにチェックをして頂くわけですが非常に厳しく、私一人では危ないぞと云うことで長澤さん本間さんが殆ど幹事の締めくくりをしてくれました。
それで「やなせ本店」で浜田先生に会うことになっていて、恐る恐る伺いますと、先生が「どうだ」とおっしゃるので、「実は長澤さんと本間さんに手伝って頂きました」と云ったところ、前と後ろをチラッと見ただけでOKでした。後は酒好きの二人ですからなるようになりました。
1991-92  さて、私は規定通りの副会長をせずに会長をやっておりますが、これは任期5ヶ月前の2月に会長となるべき一本孝治さんが亡くなられたことに起因します。当時の会長経験者が集まってどのように対処すべきか「小松」で話し合われました。副会長候補の私と幹事候補の矢島靖夫君の2人は別室で結論を待っていました。前年会長の齋藤光潔さんが2年続けるのか或いは、今年度は実際には一年前より出発しているから「会長、事あるときには副会長がこれを補う」ことで会長になるのかと云うことでしたが、結論は後者になって私が会長、急遽川島清彦さんに副会長を、そして幹事を矢島靖夫さんにやって頂きました。
1年の方針はすでに十分に話し合っていた一本さんの方針を忠実に守っていきました。その1年の矢島靖夫さんの幹事ぶりは、また1回の話題にふさわしい素晴らしいものであったこと申し上げておきます。
話は変わりますが、私が日本語に興味を持った原点は講談本でしょうか。当時はその手の本にはルビが振ってあって小学生でも結構読めたものでした。岩見重太郎の豪傑ものは例えば言葉がおもしろい。子牛ほどもある大岩を目よりも高くさし上げてチギッテは投げチギッテは投げ・・・やぁやぁ遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ・・・・等々楽しかったです。
さて、私が若い頃大阪の方に2年ばかりお世話になりましたが当時、イントネーションの違いがありました。また、大阪人には関東弁に対してコンプレックスのようなものがありましたが「吉本」のおかげでしょうか、振り込まずにだんだん関西弁なっていったようになりました。しかもキツめの大阪弁のようです。それから濁音、鼻濁音ですが特に九州方面の方は鼻濁音がないです。関東では「大学・・だいがく」を濁音で発音します。また若い歌手のひとも「が行」は濁音で歌っています。漢字の方が平仮名よりも教養があると思われるのか平仮名に漢字を当てると変わって行く。例えば「ひとごと」が「他人事」になったり、名人・職人・書生などに「かたぎ」がありますが、「気質(きしつ)」になったり変わってきています。
都々逸も好きで、歌いたかったですが・・・「この土手に上るべからず警視庁」わかる方はわかると思いま
す。ありがとうございました。
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