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<新会員卓話 1> 上原公一会員

 みなさん、こんにちは。新会員として卓話をさせていただく上原公一です。皆様から貴重なお時間をいただくことに感謝を申し上げるとともに、つたない卓話になるかと思いますが、しばらくお付き合いをお願いいたします。
3091.jpg 私は、昭和37年、西暦1962年11月に横浜にて産まれました。当時、父が、前職で東京の会社に勤めており、母の実家のそばに住んでいた関係で横浜にて生を受けた次第です。
昭和37年と言いますと、世の中はオリンピック景気の真っただ中で、あの「マリリン・モンロー」が謎の死をとげた年でもあります。また、中尾ミエさんの 「かわいいベービー」などが流行った年で、今は「ごついオヤジ」となった私にも、亡き母が「かわいいベービー」を歌ってくれたことを ほのかにですが記憶しています。
 同年生まれの有名人としては、歌手の松田聖子さん・阪神の和田監督や、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授などがいらっしゃいます。
見ての通り、今は大きな体をしていますが、実は予定日より約一カ月早く出てきてしまった未熟児だったために、約一カ月も保育器に入っていたとのこと。保育器内では 時に 黄疸も出て、まるで「小さな黄色い小猿」のような見てくれで、生死の境を彷徨った時もあったと聞いています。
保育器を出てからも、担当の医師から「小学校低学年までは、体力的・知能的に他の子どもよりも成長が遅れるかも・・・」と父・母は脅かされていたようです。
第一子で長男である私を、とにかく健康に育てたいと思った母は、ハイハイして動き回る私を追いかけてはミルクをたくさん飲ませたようです。こう言っては母に申し訳ないのですが、やや太りやすい体質になったのは、その頃の母の一生懸命さのおかげかと、感謝とともに思うことがあります。
 私が生まれて間もなく、父は今の有限会社お太幸へ戻り家業を継ぐことになり、それとともに私も横須賀へ参りました。幼い頃の私は、なかなかの「ガキ大将」で、生まれ育った平作・安部倉周辺の町や山などを、年上や年下の仲間と一緒に遊び回り、常に「生キズ」が絶えない子どもでした。
 学生時代は、クラブ活動にまい進したわけでもなく、これと言ってお話できることはありませんが、小学校の6年間 1年生の時に買ってもらったランドセルを、ボロボロになるまで使い続けたことで「よく6年間使ったね~」と周囲から驚かれたことはよく覚えています。今でも実家にはそのランドセルが、当時のまま残っています。
 中学・高校・大学と、それなりに充実した学生生活を送りましたが、周囲の友達たちに「オマエは本当に未熟児だったのか?」と驚かれつつ、比較的順調に体だけは大きくなり、大学の卒業時期を迎えます。
当時は横須賀で家業を継ぐことは全く考えておらず、何がやりたいのかも全く決まらぬまま、商社や証券会社、生命保険会社などいくつもの会社の門をたたき、先輩に話を聞きまわる就職活動を行い、「得体は知れないが、何か魅力がある」との理由から、最終的には前職である「株式会社リクルート」へ入社しました。
当時、リクルートでは、グループ一括で採用を行っていたために、大卒・短大卒・高卒合わせて同期入社者は総勢500名という大量採用。
入社前の研修等では、関連会社であった「リクルートコスモス(現コスモスイニシア)」へ かなりの人数が出向となるのではとの噂が専らの話題となっていました。
リクルートという、当時「訳のわからない会社」への入社を決めたはずの人間たちの間でも、さすがに入社いきなりの出向や転籍は恐怖の的だったのだな~と思います。
そして、その噂通りに、入社日である4月1日に関連会社であった「リクルートコスモス」へ約50名が出向配属となり、私もその一人に選ばれました。いきなりの出向人事から私の社会人生活はスタートしました。
しかも、配属は総務部人事課 新卒採用担当。出向先の「リクルートコスモス」で、出向元の「リクルート」や他の多くの会社と競合しながら、新入社員の独自採用を開始するという最前線に立たされることになりました。確かな記憶ではありませんが、独自採用初年度の採用目標は100名程度だったと思います。
初めての独自採用、ノウハウの蓄積も知名度も少なかった状況なので、仕事は過酷を極めました。
 その頃の一日を振り返ると、朝は8時前から出勤し、まだ自宅にいることの多い通学前の学生にまずはひたすらアポ取りの電話をします。昼間からアポが取れれば、会社に学生を呼び、先輩の時間を調整しては会社の話をしてもらいます。また、学生の関心の状態を確認するための採用担当部内での打ち合わせは、さながら、クラブのお姉さま方が同伴やアフターの数を競い合うような、目で見てわかるグラフ積み上げ形式で行われていました。夕方以降は、アポの取れた学生を夜の銀座へと連れ出し、とにかく一緒に酒を飲み語り合いました。時には、課長の専用カードを借りて、「バニー・ガール」のいるエスカイヤクラブのような店にも連れて行き、「うちに来ればこんな生活もできるぞ!」と学生を驚かせつつ「口説く」ようなこともありました。学生のスケジュールによっては、5時から8時・8時から10時・10時から深夜と、夜のうちにダブルヘッダー・トリプルヘッダーなどもこなし、帰りはほぼ毎晩深夜タクシー。当時はまだ「バブル」の頃だったので、タクシーチケットを課長からいただきつつ、わが身を削るようにして朝早くから夜中まで、熱く語り合っては採用に結び付けるという生活でした。
 これが入社から半年 9月の内定式頃まで、ほぼ連日続きました。内定式直前には、学生を囲い込むために遠方へと集団で連れ出して面倒をみたり、内定式を迎えてからも、定期的に内定した学生と飲みに行ったりとほぼ「酒・酒・酒」の一年。そんな生活でしたので、月間残業時間が200時間を超えることも当たり
前のことで、「よく過労死しなかったな~」と今では思いますし、当然のことながら、入社一年目の一年間で10キロ以上体重が増えました・・・。
そんな新卒採用担当を数年続け、何年か後には、まだ25歳前後の若者だったにも関わらず、中途採用なども経験し、自分よりもずっと社会経験のある30代などの採用も任されるようになりました。
今思えば空恐ろしいことですが、中途採用の応募者には、私一人がまず会って話を聞き、良いと思えば課長に引き合わせる。合わないと思えば「不採用通知」を出すという状態でした。
これは、当時のリクルートグループ全体が、社員の平均年齢では20歳中盤で、権限をどんどん若い人間に任せてやっていたことの一つの例で、今の私の年齢ほどの社員が 極端 と言っていいほど少なかったことによるものです。もちろん、現在のリクルートグループは、今お話ししたような会社ではないと思いますが・・・
 その後、数年の人事課長時代を経て、東京や横浜でマンションや億ションを販売する営業課長時代を過ごし、入社から10年。この頃 人生の転機がやってきました。人生の転機のきっかけとなる出来事の1つ目は、初代である祖父が他界したこと、2つ目は、共同経営者である宮下家の二代目が相次いでの他界したこと、3つ目は、父が60歳の還暦を迎えたこと、4つ目は、社会人として満10年を超えたことです。
この4つが、ほぼ同じ時期に重なって起こった出来事だったので、「社会人として11年目が、私の人生での一つの大きな区切りなのでは・・・これはひょっとして呼ばれているのかも・・・」と思い、横須賀にて家業を継ぐことを決断しました。
 産まれた時は「未熟児」、社会人のスタートは「出向人事」を経験してきた私なので、横須賀での再スタート時にも やはりいろいろと問題がありました。
最初の頃は、職種だけでなく、周囲の環境の急変に、社内で一緒に働く人々や顧客との人間関係を築くことに戸惑うことも多く、特に社内での信頼をどうしたら得られるか悩んだ時期もありました。
そんな時、過酷だったリクルート入社直後に 社内の先輩が言ってくれた言葉を思い出しました。
それは、「何があっても3年間はがむしゃらにやってみろ! そうすれば何かが見えてくる!」 という言葉です。「何かが見えてくるって、何が見えてくるんですか?」 と先輩に聞きましたが、「それは言葉では説明できない。やった人にしか見えないからだ。」と言われ、狐につままれたような感覚になったことをよく覚えています。そんな不可解な言葉であっても、信じてやってみるしかないと思い、すがるような気持ちで前に進んだ時期もありました。
 もうその3年間はゆうに超えて、横須賀に戻り早くも18年ほどになりますが、やっと自分なりの方向性が見えてきたのかな、と最近 少しは思えるようになってきています。
今年は、この「ロータリークラブ」にも入会させていただき、新たな一歩を始めることができました。
今は、新たな仲間を得る機会に感謝をしつつ、家業においては「居酒屋」から「酒場」へと、時計の針を逆回転させるような取り組みで、より独自色の強められるような経営にチャレンジしていきたいと思っています。
 最後に、本日の卓話の中で特定の企業に関して、やや赤裸々に語らせていただいた部分もあったかと思いますが、今でもその企業には 感謝と愛情を持っておりますので、念のため一言付け加えておきます。
本日はつたない卓話にお付き合いいただきありがとうございました。
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