活動報告

<卓話>「 クラシック・シネマにみる日米医療の差 」

<卓話>「 クラシック・シネマにみる日米医療の差 」

  元聖マリアンナ医科大学 外科学教授 片 場 嘉 明 様

20130927.jpg 只今ご紹介頂きました「片場」でございます。本日はお招き頂き有り難うございます。こちらでプログラム委員長をされている前田先生とは、私が聖マリアンナ医大横浜西部病院に赴任した時から、26年に亘るお付き合いになります。この度、何か喋れとのご下命を賜りましたので、少々拘ってきました趣味と医学をからめた題材を用意してきました。私は終戦から2年後に中国大陸より引き上げてきました。丁度その頃、大陸ボケしていた私をカルチャーショックに陥れたのが、怒涛のごとく押し寄せてきた外国映画でした。勉強はそっちのけで洋画の世界にのめり込み、映画を観た証拠に昼食代を削ってでもプログラムを買い、大事に保存してきました。本日のスライドはその頃のプログラムで、60年以上経った古いものばかりです。

その昔、映画館に入り浸ると不良になると言われた時期をなんとか卒業し、医学部に入ってから3年目に、かつての映画少年にとって大事件が起こりました。

■スライド(1)

これはハンフリー・ボガード主演の、左は1941年作のハメット原作、ジョン・ヒューストン監督の「マルタの翼」で、探偵サム・スペードに扮しており、彼がギャング役から脱却したとされる有名な映画です。右は1946年作のチャンドラー原作「三つ数えろ」、原作は小説と同じ「大いなる眠り」で、これも有名な探偵フィリップ・マーロウを演じています。1957年、医学部3年の時、ボギー死去の報道に愕然としました。彼のことは後で触れます。

■スライド(2)

これはタイロン・パワー主演の、左は1954年作の、老いていく陸軍士官学校の体操教師を渋く演じた「長い灰色の線」で、共演はモーリン・オハラです。右はピアニストのエディ・デューチンの生涯を描いた1957年作の「愛情物語」で、共演はキム・ノヴァック、女性ファンの涙をさそった素敵な映画でした。1958年彼は映画撮影中に心筋梗塞で急死、まだ46歳でした。

い医療費の請求に困窮している状況が報告されています。これを紹介した李医師のコラムから引用させて頂きました。

■スライド(17)

のっけから物騒なタイトルですが、この記事の主旨は「命が惜しければ金を出せ」です。或いは、アメリカの「切り捨て医療」の実態です。アメリカでは民を主とした医療が運営されており、価格は自由に設定できます。製薬会社も薬の値段を自由に設定できます。必然的に医療施設も過大な診療費を請求する事がルーティン化しています。日本ではすべての医療行為、薬剤に点数が定められた上に国の審査があり、自由勝手な請求は出来ません。この過大な診療費請求の根源についてですが、病院側が請求する診療費と診療に要した原価すなわちコストとの差額、これを利幅といいますが、1980年代には利幅は20%で、ごく常識的なものでしたが、2007年代からなんと180%を超えているところにあります。支払側の保険会社は大幅な値引きを要求し、さらに診療行為に支払額の制限を設定した圧力をかけてきます。対抗処置として診療側は本来のコストを大幅に上回った価格を設定する、即ち自由市場経済における「商い習慣」が常套手段となっています。

■スライド(18)

この調査に協力した患者の診療費請求書を幾つか紹介します。1列目は救急外来を受診した患者です。ここで医師からのドクターズ・フィーと救急車の料金は日本にはありません。日本では救急車は只と思っている人が多いようですが、アメリカでは呼んだ人の自己負担です。その請求書2万ドル少々の内、CTやPETの分がなんと8千ドルです。この人は無保険だったので全額負担となっています。2列目は外傷で救急外来を受診した患者です。その請求書9千ドルのうち、やはりCTの料金が6千ドル以上に達しています。この患者は職場の保険が制限付きでしたので自己負担が7千ドル以上になっています。

■スライド(19)

3列目は腰痛で電気刺激装置埋込みの日帰り手術を受けたのですが、病院の請求書が高額の8万6千ドル、その内この装置代がなんと半分以上の4万9千ドルです。実勢価格ははるか下です。職場の保険も上限があり、一部使っていたので、自己負担は4万ドルになっています。4列目は肺炎で32日間の入院、平均在院日数が10日少々のアメリカでは相当な長期入院ですが、病院請求書が目の玉が飛び出るような47万4千ドル、日本円で4千万円以上です。請求品目の請求書が161頁に及んでいます。この患者はかなり高額の保険に加入していますが制限があり、結局40万ドルが自己負担になっています。

以上のように、日本では想像を絶する利幅の請求が当然のごとく行われ、高額な診療費が請求されています。また夫々の保険も加入額によって支払額に制限があり、ひとたび大きな病気にかかると「破産」の憂き目にあうのがアメリカの現状です。一体、アメリカの保険医療はどうなっているのでしょうか。

■スライド(20)

アメリカの公的保険は1965年に創設され、高齢者に対するメディケアと低所得者に対するメディケイトの二つがあります。この対象から外れる人は民間の保険会社の医療保険に入らざるを得ません。しかし、その掛け金が払えず未加入者が7千万人、国民の23%に達すると言われています。因みに、わが国の国民皆保険・皆年金制度はアメリカより4年早い1961年に創設されています。クリントン政権のとき奥さんのヒラリーが日本の制度の一部でもと頑張ったのですが全て頓挫しました。2010年にやっとオバマ・ケアが発足し、低所得者のメディケイトの制度を緩和し運営費の大部分を連邦政府が負担すると打ち出したのですが、これも共和党の州知事が皆反対して潰されました。その主な理由が、政治的に反対即ちオバマの民主党に反対、イデオロジカルに反対即ち連邦政府が巨大化するのはケシカランということで反対され頓挫しています。日本の常識ではちょっと考えられません。

このように、アメリカの医療保険受給者の拡大計画は遅々として進んでいません。こと医療保険に関しては日本は確実にアメリカを追い抜いていると言えましょう。しかし、アメリカには、そうはさせじとの、しぶとい面もあります。

■スライド(21)

これは4年前の「テイキング・ライブズ」というサイコ・スリラー映画のプログラムですが、この女優の厚ぼったい官能的な唇をみればお判りのように、この夏前、まだ癌にもなっていない豊満な乳房、実際は乳腺を取ってしまう予防的乳房切除術を行って世界に話題をまいたアンジェリーナ・ジョリーです。多才な彼女は監督も始めまして、この「最愛の大地」はいま公開中です。

■スライド(3)

フランスの名優ジェラール・フィリップ主演の1952年作の、左は「花咲ける騎士道」、右は「夜ごとの美女」で、共演は共にイタリアのジーナ・ロロブリジータでフランスらしい洒落た粋な映画でした。

■スライド(4)

ジェラール・フィリップの伝記にある写真で、「赤と黒」、画家モジリアーニを描いた「モンパルナスの灯」、「肉体の悪魔」などのシーンです。1950年代、文芸色豊かなフランス映画の第2期黄金時代は彼の類い稀な個性によって築き上げられたとされますが、その頃フランス映画界に「ヌーヴェル・ヴァーク」運動が起り、彼は過去の遺物と酷評されました。失意のなか彼は病魔にも侵され、1959年、アメーバ性肝膿瘍と診断され手術を受けましたが、実は肝臓癌でした。術後2週間目に肺動脈閉栓症で急死しています。あまりにも若い36歳でした。近年、彼は母国フランスで再評価され、日本でも彼の名作フェスティバルが開催されています。

■スライド(5)

ハリウッドのキングと言われたクラーク・ゲイブル主演の、左はどなたもご存じの「風と共に去りぬ」で、この作品がなんと1939年制作であることをご存じでしょうか、アメリカの文化と国力に圧倒されます。右は1948年作のゲイブルとラナ・タナー主演の「帰郷」で、実は私の進路を決めた映画でした。

■スライド(6)

昭和26年発刊の「風と共に去りぬ」上巻ですが、ゲイブルと握手する著者マーガレット・ミッチェルの写真があります。ミッチェルは若い頃からゲイブルに憧れており、この本を書き始めたときゲイブルをイメージしながらレッド・バトラーを書き上げていったと、後に述べていますので、正にはまり役であった訳です。

■スライド(7)

「帰郷」のプログラムの中ですが、ゲイブルは著名な外科医と軍医を演じており、この戦場での手術のシーンに映画少年は憧れ、将来絶対外科医になると心に決めた記念すべき映画であります。1960年、彼はマリリン・モンローと「荒馬と女」の撮影中、心筋梗塞で急死してしまいます。脂の乗り切った58歳でした。

■スライド(8)

ミスター・アメリカと称されたゲーリー・クーパーの作品で、左は1941年作の「ヨーク軍曹」で、彼はこの役で最初のアカデミー主演男優賞に輝いています。右は1940年作の「西部の男」で、彼はマッチョなジョン・ウエインとは違った西部男を演じ、ウエスタン・ヒーローの双璧を担っていました。

■スライド(9)

左は1943年作のクーパーとイングリッド・バーグマンが共演した有名な「誰がために鐘は鳴る」で、重傷を負ったクーパーにすがりついてむせび泣くバーグマン。右はクーパーが二度目のアカデミー主演男優賞を獲得した1952年作「真昼の決闘」で、彼の若き妻を演じたグレース・ケリーのデビュー作としても知られています。1961年、卒業のとき、クーパーは60歳に入ったばかりで前立腺癌による全身骨転移で亡くなりました。彼は病名を告知されたとき「すべては神の思し召しだ」と言って、静かに余生を送ったと言われており、いかにもクーパーらしいと胸が熱くなります。

私が医学部3年になってから毎年、映画少年時代のヒーローがバタバタと斃れていきました。ひどく落胆し、納得出来ないもどかしさを感じていました。それが映画の中から医学・医療を少し掘さげてみる切っ掛けになりました。その中から、日米の医療の差に気付いた2・3の例をご紹介します。

■スライド(10)

映画少年憧れの君の筆頭であったイングリッド・バーグマンです。左はどなたもご存じの1942年作の「カサブランカ」で、ボガードとバーグマンが主役でなければこれほど世界的な名作にはなり得なかったと言われています。右はちょっと珍しい1948年作の「ジャンヌ・ダーク」で、バーグマンはフランスを救った娘ジャンヌ役に拘っていましたが、評判倒れに終った映画でした。外科医になりましてから多忙を極め、映画から遠のいていた時期でした。1982年、学会の帰りにニューヨークに立ち寄った時、屋台の新聞売りでバーグマン終焉の日々と見出しの載ったタブロイド紙が目に留まりました。

■スライド(11)

これが1982年9月21日発行のタブロイド紙の紙面です。この片隅に、マントで右腕を隠した少しやつれ気味のバーグマンが公園のベンチに座ってほほ笑んでいる写真があります。横の記事によると、彼女は乳癌により両方の乳房を失い、右腕は極度の腫張により上に挙げることが出来ず、首から吊っているとあります。この4年ほど前に右乳癌の切除を受けたことは知っていましたが、これ程進行していたとは思いも掛けず、外科医である私には、彼女の局所再発の状態が目に浮かび胸が痛みました。しかし、それにも増して、バーグマンは自分が癌であることを公表し、なおかつ癌の末期である姿を平然と写真撮影に応じていることに驚きを禁じ得ませんでした。この年、バーグマンは67歳の生涯を閉じました。当時の日本では、悪性の病気の場合、患者には別の病名を言って当たるのが当たり前の時代でした。わが国ではやっとこの10年、「病名周知」が認知されてきたことを思いますと、「個人が自らの病名を知る権利」に関して、日本は欧米に50年は遅れていたことをバーグマンの死から教えられます。

■スライド(12)

最初のスライドで登場したハンフリー・ボガードです。左は1949年作、ジョン・ヒューストン監督の「キーラーゴ」、右は1948年作の「潜行者」で、彼は1951年、再びヒューストン監督の「アフリカの女王」でアカデミー主演男優賞を獲得しています。この女優、ローレン・バコールは、後にボギーの妻となり、彼の最後を看取っています。

■スライド(13)

左は全米図書館推薦書になったローレン・バコールの自伝「私一人」で、右はボギーの息子が書いた「ボガード・わが父を求めて」です。これによると、ボギーは大変な飲んべえであったようで、彼の命を奪った食道がんの最大の誘因であったと指摘しています。1956年にボギーは胸、腹、頸部を切り開いて食道を切除し、胃の管を首まで持ち挙げる9時間半の手術に耐えたとあり、胸部食道がんの定型的な手術を受けた事が判ります。日本では昭和31年でして、その頃、食道の外科は黎明期の時代でした。遥か先をいくアメリカの医学に大変驚きましたが、さらに驚くべき事実に気付きました。ボギーは術後回復期に入ると、さっさと退院し、術後の放射線療法を近くのホテルから、やがて自宅から通いながら受けていたことです。57年も前から、在院日数の短縮、早期退院、早期外来治療がごく当たり前のように行われていたことが判ります。いま日本ではやっと早期退院が認識されてきましたが、ボギーの闘病記から、わが国はなんと50年前のアメリカの医療に追いついたかなということが判ります。

■スライド(14)

これは1953年制作の有名なアルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」です。ジェームズ・スチュワート演ずる脚を骨折してアパートに缶詰になったカメラマンが暇を持て余し、商売道具の望遠レンズで中庭越しにみえる裏窓を覗き見している内に、妻殺しの犯人に気付くサスペンスです。身動きの出来ない彼の助手となって活躍するのが恋人役のグレース・ケリーと名脇役セルマ・リッター扮する付添い看護婦です。実は当初、この付添い看護婦はカメラマンが自分で雇ったものとばかり思っていました。

■スライド(15)

だいぶ後になって、「裏窓」のプログラムを再読してみますと、この付添い看護婦は「保険会社から毎日派遣されてくる中年の看護婦」となっています。このたった2行の文章から、主人公のカメラマンは、リスクを伴う職業柄、入院・手術から退院後の看護婦派遣までを含んだ、相当高額な医療保険に加入していたことが判ります。アメリカでは然るべき金さえ積めば、これだけサービスの行き届いた医療保険があることを、なんと60年前の映画から知ることができます。

以上ご紹介しましたように、ここから垣間見えるのは、日米医療の彼我の差と申しましょうか、日本はアメリカの50年前を追いかけていたという事実です。確かに、その通りであったのですが、実は、私ども医療職の間では、アメリカの「医学」は世界最高だが、こと「医療」については最低だというのが通説になっています。一体このギャップはどこから来ているのでしょうか。この問題を、アメリカ人自身が告発した記事が最近掲載されました。

■スライド(16)

今年の3月4日に発刊された「タイム誌」の歴史始まって以来、36頁にも及ぶ「Bitter Pill」と題する記事が掲載されました。「苦い丸薬」とでも題しましょうか、アメリカの国民がとんでもな

■スライド(22)

日本ではマスメディアこぞって、アンジェリーナの行動に「勇気ある行動だ、公開するとは偉い」などという賛辞を挙げただけでした。しかし最も肝腎なこの問題の背景についての情報は日本に伝わっていませ

ん。実はこの問題以前に、アメリカでは「ヒト遺伝子特許論争」が起こっていました。この遺伝子BRCA1/2を開発したミリアッド社が独占特許を取得し、検査料は3340ドルという法外な価格、検査結果へのセカンド・オピニオン禁止など、一手販売の商品を始めたのです。しかし、人間の遺伝子に独占的な特許を取ってよいのかという大論争がまき起り、ついに裁判で「ヒト遺伝子の独占特許は人権侵害」という裁定が下り、アメリカのご婦人方は自由に検査を受けられるようになりました。そこで医療保険受給者の拡大計画には頓挫したオバマ・ケアが再登場します。若年者乳癌発症、BRCA遺伝子陽性、乳癌・卵巣癌の濃厚な家族歴などの適応を厳格に審査した上で、予備的乳房切除術に早くも保険給付を認定しています。日本ではまだ保険適応になっていません。アンジェリーナがこの保険の給付を受けたかどうかは判りませんが、大変な金持ちでしょうから、小遣程度ですませてしまったのではないかと私は思っています。予防的乳房切除術を行ったあと、乳房を元に近く再建する形成外科的乳房再建術が行われていますが、すでにアメリカでは 1998年に女性特有の癌や健康に対する権利法が制定されて、保険が義務付けられています。日本では、乳癌などの疾患の術後に限り、この8月にやっと保険が適応されました。ここから見えるのは、ウーマン・リブのアメリカらしい「女性に心優しいアメリカの医療」とでも申すべきでしょうか、まあこの懐の深さは日本にはないように思われます。

これは、付録ですが、約3千例の前立腺癌の患者でBRCA遺伝子に変異が証明された患者は、転移率が高く、生存率が短い事が判ったので、出来るだけ早期に治療を始めるべきとの警告を発しています。この遺伝子は女性特有ではないことをご記憶下さい。

以上、古い映画やプログラムの中から拾いだした日米医療の彼我の差と現在の日米の医療状況について、ほんのさわりですがお話致しました。アメリカの切り捨て医療に対して、世界に冠たる日本の皆保険制度ですが、平等は不平等の始まりとも言われ、アメリカからは、皆保険制度は社会主義政策そのもので、いつか破綻すると言われてきました。日本は改正を重ねながら皆保険制度を死守してきましたが、最も問題である保険料負担の公平化を中心に、次の国会で大幅な改正案が提出される予定です。本日の話を切っ掛けにして頂いて、これからの医療制度に注目して頂ければと存じます。

どうもご静聴有り難うございました。

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