活動報告

<卓話> 「 郷土史を日本近代史として読む 」(幕末外交は腰砕けであったか)

4月19日 第3014例会
元横須賀市助役 井 上 吉 隆 様

皆さんこんにちは。本来でしたらそれぞれのテ-ブルをまわってご挨拶をしなければいけないのではないのか、それほど私は仕事をする中で、皆様方のたいへんなお力添え、そしてご協力をいただいておりました。おかげさまでこの7月には辞めましてちょうど12年になります。年齢もちょっと言うと恥ずかしいのでやめておきますけど、もう生きた化石のようであります。江沢先生とは、実は江沢先生のお父さんの時代に中耳炎を診ていただきまして、そしてまた今年になりましてから耳がちょっとおかしいなという事で江沢先生のお世話になりました。普通ですと診てもらう方が親子二代にわたって先生に世話になるという事ですが、私の方は逆に先生に二代にわたって診ていただいている次第であります。今日ここでこうしてお話しをさせていただく機会を江沢先生に作っていただきまして、本当に心からお礼申し上げたいと思っております。
20130419.jpg私は今日、ペリー来航のお話しをしようという事でまいりました。というのは今までの市内の中学・高校の教科書を見ますと、多分皆様方もお子さんやお孫さんの教科書をご覧になったことがある方もいらっしゃるかと思いますが、近代史というものは非常に簡単に書いてありまして学校で習う時間がなくて終わってしまう場合が多いようです。ペリー来航で始まります開国、尊王攘夷、討幕、明治新政府、そして産業振興と富国強兵というのが概ね近代の日本史の流れとして書かれております。このペリー来航につきまして、本当にその時の幕府が弱腰であって腰砕けの形で外交交渉をしたのではないのかというようなことが色々な本に書かれております。今日お手元のレジュメにありますように、ペリー来航から条約の締結へという事で、まちには狂歌が流れました。この表紙にありますペリー記念碑の入り口のところに、この狂歌が表示をされております。「泰平の 眠りをさます じょうきせん たった四はいで 夜もねむれず」という事で、大変世の中が騒然としたと言われております。
そして浦賀の宮井家に残る鉄鍋が、来航したペリー艦隊に飲料水を補給したお礼に、提供されたものという事で、現在博物館の中で常設展示がなされております。深さが25センチメートル、幅が60センチメートルの楕円形のシチューを作る鍋だと言われております。もしペリーが武力を持って条約を結んだとしたならば、こういう物がまちの中に残っただろうかということを私はかねてから不思議に思っておりました。浦賀の方にお話しをお聞きしますと、色々なものが艦隊から残されているということです。
もし武力を持って条約を結んだとしたならば、浦賀の奉行所に対し力づくで「こういう物を持ってこい」、「水を持ってこい」、「食べる物でこういう物を持ってこい」という事をやったのではないかと思うのですが、こういう鉄鍋が残ったということは、本当に武力によって条約が結ばれたのかどうか、そこに実は疑問を持ちました。日米和親条約を結んだ経緯については、私たちが学んだ歴史の中では「条約の締結に当たった幕府は無能であった」「強大なアメリカの軍事的圧力に屈してしまった」「不平等条約を結ばざるを得なかった」というような形であります。
そうした歴史的な通説が正しいのかどうか、もう一度見直してみる必要があるのではないのかというふうに考えました。そうするとむしろ私は、明治の新政府が、ここに書いてありますように、「条約改正が本格的な政治課題であると認識していた」「なんとか条約の改正をしたい」「その為には幕府の対応が弱腰であった」という政治的なキャンペーンをはったから、このような教育の仕方を我々は受けたのではないかというふうに考えます。
そこでこの条約の改正にあたって明治新政府はどういう事をしたかと言いますと、岩倉視察団の海外派遣を行っております。これはアメリカ、ヨ-ロッパの視察をしてきております。岩倉具視、木戸孝允、これは桂小五郎ですね、それから大久保利通、伊藤博文以下48名が明治4年12月23日に出発をしまして、明治6年9月13日帰国、1年9ケ月、632日間の海外視察をしております。アメリカに行った時にペリーと結んだ日米和親条約の改正について申し入れを行います。というのはアメリカで大歓迎をされたのでこの際一気に条約改正をしようということで話をしましたところ、国務長官のフィッシュから「天皇陛下からの委任状を持ってきているか」と聞かれます。もともとこういう条約改正をするときには委任状を持っていって、そこで初めて間違いなくこの大きな仕事を任されたということで条約改正についての話し合いが始まるわけですが、残念ながら持っていませんでした。
というのは条約改正にそういう物が必要だという事を、当時の明治の新政府の役人の方々が知らなかったのではないかというふうに思われます。そこで急遽、大久保利通と伊藤博文の二人がアメリカから日本に戻って委任状を持ってアメリカに帰ります。いまなら携帯電話で「委任状を忘れたから持ってきてくれよ」或いは「faxで送れよ」というような事で済んだかもしれませんが、当時のことですから船でアメリカから日本へ取りに帰るという事はさぞかし大変なことであったと思います。
しかし残念ながらここでも交渉は成立しませんで、632日間大変な勉強をして日本に帰ってくるわけです。私は条約の改正はできなかったけれども、この632日間は無駄にならなくて、明治新政府が新しい行政上の色々な施策をするための大きな勉強をしてきたのではないかと思っております。さて日米和親条約が結ばれたというお話しをしました。私はペリーが来航した1853年を「イヤナゴミ」と呼べるのではないかと思います。当時の徳川幕府とすれば「イヤナゴミ」が舞い込み、従ってそこから開国への道が開けてくるわけです。
アメリカのペリー一行が浦賀にまいりまして、「江戸でアメリカ大統領の国書を渡したい」、しかし日本側は「全て長崎でそれを受け付ける」ということから、当時の浦賀奉行所におりました中島三郎助が自分の身分を副奉行だと偽って、アメリカの旗艦でありますサスケハナ号に乗り込みまして「江戸ではダメだ。長崎に行け」と色々交渉した結果横須賀の久里浜で国書を受領しようという事になります。つまりアメリカとの外交交渉の最初の幕開けというものは、この中島三郎助が始めたのだというふうに言っても差支えないのではないかと私は思います。しかし、残念ながらこの浦賀奉行所で行われた交渉というものは中学校、高校の日本史の教科書の中には一行も書かれておりません。
そこでまず交渉が行われ久里浜の海岸に、にわかに新しい建物を建てまして、その中で国書の奉呈が行われたわけです。そしてその国書をもとにいたしまして、その翌年に条約を結ぼうということになったわけです。そこでアメリカの圧力に屈した条約を結んだのではという事を先ほどお話しを致しましたけれども、それが本当かどうかという事を検証してみる必要があるのではないかと思うわけであります。
さてそこで二番目に当時の先進諸国の条約締結方式という事ですが、これは元横浜市立大学学長で現在都留文科大学の学長、加藤祐三先生の考え方によりますと条約の締結方式には二つあります。一つは交渉条約、ここには日米和親条約とありますけれども、最初に口火をきった中島三郎助の外交交渉から始まった交渉条約が日米和親条約です。そして戦によって勝ち負けがあり、勝った国が負ける国に押し付けるというような敗戦条約という二つがあるということです。
1840年にアヘン戦争が行われまして、アヘン戦争の結果イギリスが1842年に南京条約を結んでおります。それを受けまして1844年にアメリカがここに書いてあります望厦条約というものを結んでおります。そこでペリーは日本に来てこの日米和親条約を結ぶスタート地点では、清国と結んだ望厦条約と同じように和親条約それから通商条約も含めた中で結ぼうという事を考えていたようであります。
そこで3番目の幕府の対応でありますけれども、徳川幕府は1854年のアメリカの再来に備えまして応接係りを5名指名しております。これは林大学頭以下松崎満太郎までの5名であります。この5人の方を指名してアメリカの再来に備えての準備をさせております。
そして1854年2月8日に第一陣が来航いたします。ここでも交渉の結果「江戸で交渉したい」というアメリカに対して色々と話をする中、前回久里浜で国書の受領をしたのでその間を取ってという形になったと思うのですが、横浜で交渉をしようということになり3月6日に横浜応接所が作られました。これは久里浜で使用したものを移築いたしまして、さらに増築いたしております。3月8日に第1回目の交渉が始まりまして、3月31日に条約の調印がなされ非常に速いスピードで条約が結ばれております。
そこで5番目の日米和親条約の外交交渉という事で書いてありますけれども、アメリカ側からは平和・親睦・通商を含む包括的な条約の提案がありました。これは1844年にアメリカが清国と結んだ条約と同じものを同様の内容で結ぼうという提案がありました。しかし交渉の結果としてペリー側は主張を大幅に後退しまして、12か条からなる条約となりました。内容といたしましては、薪や水、食料、石炭、これは当時アメリカから捕鯨のために船が来ておりまして、その船に対してこういう物の供与だとか、難破船修理のための避難港の開港、それに関連する諸問題というような12か条の条約でありました。
ペリー側の提案から外されたものといたしましては、開港・貿易・居留等の具体的な内容があります。ですから決してアメリカが武力によってこの条約を結ばせたという事には当たらないというふうに私は考えております。そこで条約書がいったいどういう形で結ばれたかという事で、条約をきめる場合には2つの要件があると言われております。1つは署名です。誰が署名をするか、それは事前に交渉事として決めてまいります。それから2つ目は条約の文書です。正文と言いますけれども、これは後で問題になった時に或いは改正をどうするかという時に、何語で書かれた条約にするかということを外交交渉で決めてまいります。
さてその中の署名の方ですけれども、1854年3月31日に調印された条約書というものはどうかといいますと、実は本来であったならば1通で済むはずなのに、3月31日に調印されたものは4つの条約文になっております。これは実際加藤先生がアメリカの公文書館で調べてきております。その条約文は英文のもの、日本語のもの、漢文のもの、オランダ語のものと4通あるそうです。英文のものにはペリーがサインをしてあるそうです。これについてはアメリカから林大学頭に署名をしてほしいという申し入れがあったのですが「人が書いた文書に自分が文書を書く必要がない」ということでそれを拒否いたしまして、日本語で書いた条約文に林大学頭、井戸、それから鵜殿この3人が署名して花押を書いています。それから漢文で書いているものがありまして、これは松崎が署名して花押を書いています。それからあとオランダ語で書かれたものがありまして、通詞の森山が署名をしているという事で双方の全権が同じ条約文に署名したものは1通もなかったと言われております。
これは加藤先生がアメリカで確認をしてきているわけであります。本来ならこれと同じものが日本にも残っているわけですが、残念ながらみなさんご存じのように江戸城というのは何回かに分かれて火災にあっております。残念ながらこの条約文は一つも日本には残っていないという事です。加藤先生も確認をなさっておりまして、実は4通の条約文がアメリカに残っています。それから正文というのは条約の解釈に必要な特定の言語で書かれた本文ですが、正文を何語にするかの交渉が日米間の間で一度も行われないで条約が結ばれてしまっています。つまりお互いに言い合いだけをしてしまって、同じ内容のものの確認の文章をそれぞれが作って、それぞれのものについて署名をしたということになっておりますので、現在作られております条約文とは全く異なっているのではないかと思うわけです。ですから私は当時の徳川幕府が弱腰でこの条約が結ばれたのではないということの証明になるのではないかと思っております。
そしてこの条約文が決まってそれぞれ署名が終わって合計8通の条約文ができあがった時に、ペリーが「両国の親睦の儀を首尾よく整えることができて大変喜ばしい」と言う発言をしたそうです。林大学頭は「誠に喜ばしい」と話をしました。そしてペリーは更に「貴国の厳しい国の法律をうかがったが、それにもかかわらずこのように親睦の誓いを結ぶことができた。今後日本が外国と戦争にいたった時には軍艦、大砲をもって加勢するつもりである」と話しました。林大学頭は「ご厚意のほど有り難い」という話をしたそうです。このことを加藤先生が確認して帰ってこられたという報告書を読んだ時に、私は今の日米安全保障条約がそのままこの明治の時代にも生きていたのかなあというようなことを感じたしだいであります。
お時間がきてしまいましたが、本当は中島三郎助の話を少ししたいのです。というのは当時の浦賀奉行所の与力であった中島三郎助を後に桂小五郎が気になさいました。一番下のお嬢さんを養女にしようかと考え、あるいは一番下の48歳の時の息子さん、与曾八という名前ですが、この人を是非海軍の将校にしてほしいと榎本武揚にお願いしました。このことから榎本武揚は横須賀にありました当時の海軍機関学校へ与曾八をやりまして、最後は海軍中将になります。そして横須賀造船所、後の横須賀海軍工廠の造機部長の第3代目と第5代目をやっております。そして中島三郎助の33回忌の時に、浦賀の山に記念碑を作ろうと榎本武揚などが立ち上がりました。そしてそこに記念碑をつくった折に、是非中島三郎助のために造船所を作ろうではないかと言ってできたのが浦賀ドックの始まりだということであります。今日は時間がありませんので詳しいお話は省略させていただきますが、そのような事でやはり郷土史をしっかりと読んでいくと、日本の近代史というのは本当に今学校で教えている日本史と整合しているのかどうか、そういう事をあらためて考えさせられるところであります。私もいまそのようなところの本を読んだりしておりまして、気になっていた事だったので、江沢先生からのお話がありましたので今日こうして皆さんにお話しをさせていただきました。
後1分だけお願いします。テーブルの上に青い瑠璃色の紙がのっていると思います。実は月曜日に関東学院大学で小泉進次郎さんがみえまして講演をなさることになっております。今私立の大学の45%は定員割れであります。大学の数は増えました。しかし少子化によりまして18歳人口が減ってきております。そのような事態になっております。そこで関東学院大学でも是非大学の入り口であります入学者に良い学生をたくさん取ろう、出口である就職も出来るだけ多くの方に良いところに、あるいはきちんと就職をしてもらおうという事で、大学だけではなくて同窓会も含めた一体のものとしてこれから大学と同窓会が手を組んで進めていこうではないかという事で、サポートクラブを月曜日に立ち上げるわけであります。その時に卒業生であります小泉進次郎さんに講演していただきます。
こういうクラブというものは神奈川県内の大学では第1号であります。皆様方のところでもいろいろと関東学院大学の卒業生がお世話になっていると思いますので、もし関心がありましてお時間がございましたら是非八景のキャンパスにお越しいただけたら幸いだと思っております。ちょっと色々なお話しをしてしまいましたけれども、今日はお招きをいただきまして、そしてお話しをさせていただきました事を心からお礼申し上げまして終わりとさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
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