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<卓話> 「 私が入会した当時のロータリークラブ会員 」

<卓話>     「 私が入会した当時のロータリークラブ会員 」

                                     髙 地 光 雄 会員

 私が入会した当時(1961~1962年)のロータリークラブ会員は、チャーターメンバー14名、チャーターメンバー以外41名の合計55名で例会が行われていた。
① チャーターメンバー(14名)
     本田 泰・金子吉造・長浜顕達・谷川 武・樋口宅三郎・小佐野皆吉・村瀬春一・森本福太郎・
     宮田喜代次・鈴木角次郎・小倉文司・佐久間一郎・多治見一郎・石渡三郎
② チャーター以外のメンバー(41名)
     若命又男・後藤令二・WLヒギンス・井上雄三・髙橋孝二・川名一郎・川島俊一・水島勝栄・
浜田清三郎・村松治郎・西 熊治・八巻唯二・原田 則・馬淵 勝・白井 修・吉井勝重・
平井実太郎・伊藤喜公邦・宝子山朝吉・重城二郎・菅沼謙一・山本耕二・桑原藤馬・上林謙三・
木村秀儀・小沢金作・矢島金太郎・平山清光・平川・小池光雄・八巻淑博・原 敬・大庭常吉・
髙地光雄・高木
③ 会長・副会長・幹事
     小佐野皆吉・井上雄三・伊藤喜公邦

3070.jpg ご存知かと思うが、チャーターメンバーの村瀬春一さん、鈴木角次郎さん、小佐野皆吉さんは、それぞれ現会員のお父様またはお祖父様である。
 チャーターメンバーの中で特にご紹介したいのは、佐久間一郎さん。横須賀市の池田生まれ池田育ちの 秀才。海軍工廠で勉強した後、発動機の優秀な技師として、中島飛行機製作所の所長となり、戦時中に日本で初めて国産の発動機による飛行機を飛ばした。「自分が造った発動機を積んだ飛行機を運転すると気持ちが良いよ」とおっしゃっていたのが思い出される。
その佐久間さんが「電気自動車を作りたい」と言ったとき、横須賀RCの初代会長でもあった岡本  伝之助さんが賛同し、チャーターメンバーである村瀬さん、長浜さん、谷川さん、小佐野さん、森本さんと 共に、佐久間さんを代表とする株式会社(関東電気自動車、後の関東自動車工業)に出資している。
同じような話が他にもある。宮田喜代次さんは横須賀でメリヤスを作り東京に売って活躍された方だが、この方も先ほどのメンバーの出資を受けている。
このように当時のチャーターメンバーは、単にRCを創っただけでなく、仲間の事業にも協力する、まさに「職業奉仕」の精神を地で行っていた。
次にロータリーの運営の話をしますが、今と違い、いろいろ面白かった。
まず、私は、入会して半年も立たないうちに「副幹事」となった(前任が突如辞めたため)。当時私は 青木良夫会員とたった二人の昭和生まれ。チャーターメンバーは明治生まれだし、他のメンバーも大正生まれである。今で言うならこの中に「平成生まれ」がいるようなもので、副幹事としてまさに「駆けずり  回った」ものである。
 当時の地区の状況は資料にあるが、1962~63年は埼玉・千葉・東京・山梨・神奈川・沖縄の6県で  あったが、1964~1965年は山梨・神奈川・静岡となった。地区大会の幹事を務めたが盛大であった。  副幹事であった1962年はガバナーが東京の中村米平さんであったが、RLはすべて英語であり翻訳家に 頼まないと対応できなかった。
私が幹事のときの会長は樋口宅三郎さんであったが、樋口さんは神奈川新聞の創立者であるが、大変 ユニークな方であった。「手に手をつないで」の替わりに「鳩ぽっぽ」や「幸せなら手をたたこう」を  歌うこともあり、楽しい例会であった。
 ニコニコでは、「バッジなしで横須賀の街を歩いていた」「夫婦でニコニコ歩いていましたね」など言われ、その都度ニコニコを支払うことになった。
 当時は例会の出席は大変厳しかった。出席率が悪ければ自ら退会し、出席できるようになると再入会するような状況である。出席率は、もちろん全員100%以上。いや一番悪くて130%。メーキャップで   200-300%の方が多かった。
 入会の時には、会長が事前に情報伝達を行っていた。会長、推薦人・幹事が自宅に行って、奥様にも  ロータリーの理解を求めた。今はそんなことはやっていませんね。
 社会奉仕としては、久里浜の少年院に誕生祝いとして、手作りのおはぎや稲荷ずしなどを持っていった。奥様が作ったもので、「これから悪いことはしてはいけないよ」とか一人ひとり渡すのだが、度胸はいる。その後、感謝の手紙をもらった。「先生のおかげで改心しました。」初めてもらったときは涙が出るほど感激をした(ただし、2回目は・・・、同じ文章だったのを見て・・・)。
 それから、樋口さんは新聞屋だったため、新聞配達の子たちを激励した(軍手を配った)ことがある。 新聞社がこぞって横須賀RCの社会奉仕を報道してくれた。
 大津の幹線道路沿いの桜も横須賀RCの先輩方が植えたもの。当時の社会奉仕の精神はしっかり受け  継がれている。
 谷川武さんは「沢の鶴」が大好きで、そのお酒がないと横須賀RCの宴会は始まらなかった。
 チャーターナイトは二泊三日。心から歓迎した。会員はジャケットを作り、奥様方は共通の着物を新調 してご来賓を迎えた。夜は、個性的なチャーターメンバー諸先輩方から、いろいろお話を聞くことができ 大変参考になった。
 伊藤喜公邦さんは横須賀RCの影の創設者。横須賀RCができたとき商工会議所にいて事務をすべて  作った方。私が副幹事のとき幹事をされており、さまざまなご薫陶を受けた。横須賀RCから感謝状を  もらった方はこの方だけである。横須賀RCに大きな貢献された立派な方である。
 RC会員の奥様方も怖い存在だった。酒席などでは緊張感でいっぱいであった。
 今の例会について言わせていただければ、「もう少し重みがほしい」。人数もかなり多くなったし、横須賀在住でない人もいる。RCの本質と違うのではないかと思うこともある。
 新しい組織の中で古い話を活かしていくのは大変だとは思いますが、今日の話で50年前の横須賀RCの姿を垣間見ることができたと思うので、今後の運営に参考にしていただければ幸いです。

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