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<卓話> 「 災 害 - あなたはどうしますか 」

<卓話> 「 災 害 - あなたはどうしますか 」
 神奈川県立保健福祉大学 名誉学長 阿 部 志 郎 様

20120713.jpg戦争が終わって2年後の1947年9月14日に大型台風がこの地方(東京が中心)を襲いました。カサリーン台風と申しました。荒川が決壊し、東京の下町が冠水して2,000名の犠牲をだしております。今、同じ台風が東京を襲うと56の地下鉄の駅が冠水ないしは水没するとの予測を東京都が立てております。私は、当時学生でありまして仲間23名と救援隊を組織して現地にまいりました。小高い場所にテントが張ってあり本部と書いていましたので、救援の申し込みを行いました。4・5人の男性が座っていました、戦闘帽を被り、長靴を履いた方々、伺うと町内会長さんでした。若い私どもは、行けば大歓迎されると気負いがありましたが、そのおじ様達の示された反応は実に冷ややかなんです。こんな筈ではないと思いました。中の一人が、「まあいいから、お座りなさい」と筵の上に座らせ、被害状況の説明をした後で、エピソードを一つ紹介されました。浅草の言問橋の袂に、昔バタヤとよばれる廃品業者の集落がありました。この人々が後に蟻の街というのを作るのですが、この集落が一晩のうちに跡形もなく洗い流されました。この人達を指導していたのがゼノというカトリックの修道士でありました、当時長い髭を生やしたゼノさんというのは、マスコミに大変有名でした。そのゼノさんが闇市に行って蝋燭とマッチを買い占めてボートに載せて漕いで廻った。避難体制がなく、それぞれ2階屋に逃れております。刻々水が増して2mの冠水でありました。電気はなく、水も食べ物もなく、不安に慄いている人々のところへ一軒一軒廻って蝋燭を配りました。町内会長が、何故このゼノさんに力付けられたか分かりません、賢明な方でそれ以上仰らなかったんですが、若い私たちは、「それなのに君達、今頃来て何をするのか」と言外な言葉を感じまして頭を打ちのめされる思いであったことを未だに忘れることができません。災害にあった人が求めるのは、食べる物、飲む物、着る着物、避難する場所なんです。一本の蝋燭というのは何の価値もない筈なんです。にも関わらず、その蝋燭の光が闇を照らして人々に希望と新しいエネルギーを与えたということではないかと思います。パンというのは不可欠です。しかし、パン以上の物が希望をもたらすことがあります。私共は食べる物がありませんでした。ゲーテが涙を以ってパンを食べた者でなければ、味は分からないと申しました。当時、皆、米や醤油の貸し借りをしたり助け合って、人生の味を味わったんです。約10年、そして戦後10年経ってから日本の経済復興が始まり、経済成長から高度経済成長へと移ってまいりました。アジアで日本人はエコノミックアニマルと軽蔑されるほど、欲望を丸出しにしました。この時代のキャッチコピーがいくつかあります。その一つが、「家付き、カー付き、婆抜き」という言葉で、若い女性の結婚相手の男性に対する条件を示したのです。まだ普及していない家をもっていること、車の持ち主であること、物を持っていなければいけない、しかし、同時に婆抜きというのは姑はいらないという言葉でありまして、金・物を大事にし、人間を軽視するという風潮が起こったのです。もう一つ、バスに乗り遅れるなと皆叫びだしました。バスは1台しか走っていない、飛び乗れ、皆走って、人を掻き分け、押しのけて、自分だけでもバスに乗りたかったみたいです。この時、走れない人がいる、飛び乗れない人がいるということは念頭にありませんでした。助け合った社会から競争社会へと移ってまいりました。これが教育に反映してアチーブメントテストを一斉に実施し、偏差値を設けました。平均以上の子供は、金の卵と持ち上げられました。しかし、平均に達しない子供は落ちこぼれと呼んだのです。この横須賀で当時、難しい教育問題が持ち上がりました、中学校で、生徒たちが弁当を持ってくるのに箸を付けてこない生徒がいました。箸を持って来いというと、俺は箸がなくても食えると開き直り、弁当箱からそのまま齧り付くのです。横須賀25の中学校に広がり、教師たちはこれを犬食いと呼んだのです。止めようがありませんでした。人間はパンを手段にして、より高い人生に向かって歩む存在です。犬食いというのは、パン自体が目的化したということかと思います。パンが目的化するということは、生きる意味を見失うこと、これが、豊かさが子供たちに与えた影響でもあります。ここから、虐めが始まりました。校内暴力が起こり、不登校も今なお12万名います。そして虐待、過去20年間で児童虐待は50倍に増えているのです。年寄りは東京23区で1日平均10人が孤独死しています。そこで、無縁社会と今日呼ばれるようになりました。
1995年1月17日に阪神淡路大震災に見舞われました。一番大きな被害を受けたのが神戸の長田区でありまして、ここで、救助を受けた4人に3人は市役所・消防・警察・自衛隊ではなく、近隣の人です。倒れた家屋から隣の人が助け起こした。これがサービスです。サービスというのは、倒れた人がいれば助け起こす、私が倒れたら助けてもらう、助け助けられるという相互性において成り立ちます。助け助けられるということを経験した長田区の人々は、何処へ行っても嫌な顔をされた在日韓国人の老人ホームを迎え、今なお、支援を続けております。私が神戸に入ったのは翌週で、雨の日でした。4人の10代の茶髪若者に会いました。その青年達が、自分の体を濡らしながら、救援物資は濡らすまいと庇って避難所に運んでいる姿に感銘を受けました。この若者に優しさを見ました。優しいという字は憂いに人が関わると書きます。苦しみを共に分かち合うことによって優しさが生まれるのです。兵庫県の貝原知事が震災で私共が学んだ教訓は唯一、人の心の温かさですと仰いました。災害というのは、人間に優しさの想いを育てるのだと思います。そして、昨年の3月11日の東日本大震災であります。50万人の人々が非難しました。2500箇所になります。通信は途絶えて情報がありません。交通も遮断されています。食べる物も毛布もなくて、寒い中、肩を寄せ合って過ごしたのです。翌日の午後、やっと、むすびが届きましたが、腹を減らしている避難所の人々は、あの山の向こうの避難所がもっと困っているはずだから、先にもっていってやってくれと受け取らない。救援物資のむすび、味噌汁をボランティアは一緒に食べますが、これを運んだ自衛隊は全くこれに手を付けず、冷たい携行食で最後まで通している。避難所に米軍がボランティアできました。米国の大統領府は今回の東日本の震災の時、反射的に行動を起こした声名を出しました。これがともだち作戦になったわけです。震災で反射的に行動を起こすということは、中々できないことです。震災の時に私の友人が透析を受けていました、その時職員が顔の上に被さったそうで、感激して手紙を送ってきました。体が覚えるのです。自然に体が動く、これが経験ということの意味だと思います。救援にきた米軍の兵士に避難所の人々がキャンディを配った、外電で大きく報ぜられました。想像できない、日本人の美しさであるとのコメントです。中越地震で援助を受けた新潟は、全市町村が直ちに14,000名の人を引き受けますとの決議をしています。口蹄疫で世話になった宮崎が24時間ぶっ通しで東北に物資をトラックで運んだのです。函館は288艘の漁船を岩手に寄付しました。それは、昭和9年の函館の大火で援助を受けたお返しでございます。今回の震災で多く出てきたのはお返しです。台湾は200億の金を持ってきました。タイのスラムの子供たちが、日本人にお世話になったと義捐金を送ってきました。このお返しを互酬といって互いに酬い合うことです。田んぼの植え付けを行う時に手伝う、それで借り入れも手伝ってもらう、手間貸し、手間借りと申します。この互酬は皆さんも日常生活の中で実行しています。それは、結婚式に呼ばれるとお祝い金を持って参上し、帰りに持ちきれない程の引き出物をいただきます。葬式は香典を差し上げます。昔から半返しといいますが、香典返しを頂戴します。私共の極普通の日常の行為です。ヨーロッパで結婚式にお祝い金を持っていく人はいません。アメリカで葬式に香典を届ける人はいないのです。近代化とともに廃れました。日本の社会も近代化されましたが、昔ながらの互酬の風習を大事にしているのです。例えば高校の時のクラス会、同窓会、一緒に会社で働く仲間、一緒に歌を歌ったグループ、親戚という顔の見える親しい仲間同士の助け合いを互酬と言います。福祉というのは、見ず知らずの人達に働きかけでございます。この互酬を広げられるかというのが一つの宿題なんです。北海道の奥尻の震災の時に、市内の特別養護老人ホームで一人のお年寄りが義捐金を持ってきた時に「私は関東大震災で助けられました。お返しです。奥尻に送ってください。」と仰いました。2つのことに注目しました。一つは助けられたことを70年間忘れられずに、いつかお返しをしたい。第2にお返しをする先は、助けてくれた当事者ではなく見ず知らずの奥尻であった。この時に互酬の普遍化を確信しました。1964年にライシャワ米国大使が、暴漢に刺され、外交上の大問題となりました。ライシャワは輸血を受けましたが、流石は外交官で「これで私の体に日本人の血が通いました。」と言ってくれました。しかし、B型肝炎に罹り、これが命取りになりました。この時に日本は血液を変えました。それまでは売血、400万の人々から血液を買い上げ、輸血に廻していました。血を売って生活をする人々もいましたが、これを止めて献血に切り替え、各地に献血センターを作りました。横須賀では田戸台に血液センターを作り、市立病院の須崎先生が初代の所長でした。献血が終わると紅茶とドーナツがでるなど、大変歓迎をしてもらいました。当時、貰った献血手帳は20数ページあり、中には、あなたとあなたのご家族が血液を必要とする時、あなたが献血された同量を優先的に確保しますと書かれています。私が400CC献血すると、交通事故を起こした時に直ぐに返してくれる。互酬の約束手形でもあります、これを持っていれば血液を確保できたのです。今、皆さんが持っている献血手帳は1枚の紙で何も書いてありません、お返ししますとの約束はありません。なのに600万の人々が献血に参加しており、互酬は明らかに普遍化したと言っていいのかと思います。
 震災で16歳の高校1年生が避難所に来ました。津波が引いた後を見ると、自分の家の前まで全部洗い流されましたが、自分の家だけ無傷で残ったんです。この高校生が避難所に戻って「申し訳ありません。」と頭を下げのです。実に見事な高校生であります、なかなかできないことだと思います。しかし、今回の震災で、それが私達国民の気持ちを代表しているのかと思います。震災時に遠くいて良かった、ラッキーだなんて言わないです。それどころか、何かできることはないか、何かしたいという気持ちに悩まされました。国民10人の内8人が義捐金に参加しています、こんなことは、かつてないのです。沖縄に「ちむぐりさ」という言葉があります。肝が苦しむという意味です。沖縄では戦争で4人に1人の県民が亡くなり、生き残った人が亡くなった人に対し、「ちむぐりさ」自分たちだけが生き残って申し訳ないという気持ちを表したのです。今度の震災で安全地帯にいることを喜ぶのではなく、被災された人々に対し、すまないという想いを
皆が抱いたのです。長瀬に刑務所があります、上大岡に横浜刑務所、この2つの刑務所で受刑者達が自主的に義捐金を集めました。300万円です、受刑者の1ヶ月の労賃は6千円に過ぎません、日本全国の刑務所で6千万円の義捐金を集めたのです。居ても立ってもいられないとの想いだったのではないか、「ちむぐりさ」であります。災害によって国民の意識構造は明らかに変わりました。一過性かもしれない、でも歴史的事実であり、これをこれから、どう発展させるかが大きな問題ではないかと思います。災害に対し私たちは何らかの形で支援したい、東日本に対して横須賀は今でも毎月ボランティアのバスを出し、何かしたいと皆行っています。同時にその支援をどう受け止めるかという、受け方の問題もあります。戦後、貧しい時代にアメリカの民間団体から救援品を送ってくました。これをララ物資と言います。当事にして400億円、  1600万の人々がこの物資の恩恵を受けました。このララ物資は全く闇に流れませんでした。寄贈した米国が日本に感謝したのです。世界の救援の歴史において、救援物資が闇に流れない、横領がない、略奪がない、暴動がないというのは、稀有なことです。日本は災害が起きた時に、暴動を起こしたことはありません。アメリカでさえ、カトリーナ台風で暴動を起こしています。これは日本の貴重な歴史です。なぜ暴動が起こらないのか、理由は存じませんが、おそらくは儒教に「恕」という言葉があり、己の欲せざるところ人にあとうなかれという意味であり、自制を求めて、人に決して迷惑を掛けるなということです。私はこの教えが大きく影響しているのだと思っています。救援物資というのは、食べたら終わり、そういった性格のものです。ところが、ララ物資に関しては、終わりにしませんでした。ララ物資を子供たちに廻し、ここから学校給食が始まり、今日まで続いています。最近、学校給食に対して、給食費を払っているのに、何故、子供たちに「いただきます」と言わせるのかと父兄から反発の声が出ており、すでに止めた学校もあります。食事をする前に念仏を唱えたり、お祈りをしたりと色々な礼儀があります。しかし、「いただきます」「ごちそうさま」と表現するのは、おそらく日本だけだと思います。いただきますというのは、それを供してくれる両親・家族への感謝、生産者に対する感謝、同時に動植物の命をいただくことへの礼儀です。自然に対して、畏敬の想いを持つ、これが私共の先祖が伝えてくれたことでしょう。私共は人間の手で制御できない物を文明社会で作ってきました。今度の災害は、自然を恐れる、自然とともに生きるということを改めて考えさせられたのではないかと思います。日本は救援を受ける、受け方を世界に示してきましたが、それだけで十分であるか、アメリカ・ヨーロッパ社会では、「価なくして受けたれば価なくして与えよ」と教えてまいりました。毎年3月に確定申告が行われますが、確定申告に1万円以上の寄付で寄付控除が行えます。寄付金控除を受けている人が全国で約10万人いますが、災害からこの1年間に、この寄付が2.5倍に増加しているは注目して良いと思います。アメリカは7千万人の人々が寄付控除を申請しています。寄付をする、与えるということに抵抗がないのです。アメリカは与える文化を創りましたが、受ける文化がない、受け方をしりません。アジアの仏教は寺から毎朝、少年僧を含めた僧侶が托鉢に列をなして村や街へ出てきますが、日本では托鉢は門付けといって一軒一軒廻ります。アジア仏教では、村の人々が通へ出て雲水を待ち受け、雲水が来れば布施をする。その村人が雲水の前に跪いて布施(お金ではなく食物)をします。受ける雲水は、一言のお礼も言いません、お経も読みません、頭もさげません、黙って鉢に受けるだけで、これを持ち帰って貧しい人達と朝食として分かち合うのです。社会常識に反すると思います。与える者が跪き、受ける者が立ったまま、これはおそらくサービスの原形かと思います。アジアは受ける文化を創ったのです。日本はODAで多くの援助をアジア諸国にしてきました。日本の不満は折角援助した国々からのお礼が十分でないということです。ところがアジアから言わせると「我々は日本に与える機会を作った。お礼を言うのは日本ではないのか」となる。与える者、受ける者が等しく恵みに預かるというのがアジア文化なんです、受ける文化を創ったが、与える文化は非常に脆弱であります。日本は受ける文化があると申し上げましたが、アジアから見ると不十分です。残念ながら私たちは受ける文化を創っていません、与える文化も持っていません、ないということは、新しい可能性であり、これから災害に関わらず、与える文化、受ける文化の均衡を保ちながら新しい文化を創っていくことが課題なのではないでしょうか。
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